信仰

信仰

行詰り(栄光180号 昭和27年10月29日)

行詰った際、振向いてよく考えてみれば分かるはずである。それによって何処かしら間違っている点に気がつけばいいので、人間は普段から精々知恵を磨いておくべきでそれにはできるだけ御神書を拝読すべきである。
信仰

宗教に自由はあるか (救世 四十八号 昭和二十五年二月四日)

他人に些(いささ)かでも障害を与えるとすれば気が咎める、不愉快であるから、そこに天空海闊(てんくうかいかつ)的の気持にはなり得ない、どうしても他人に愉快を与える事によって自分も愉快になる、之が真の自由である事を知るべきである。
信仰

「叡智の光」(2)地上天国17号 ※稲荷 昭和二十五年十月十五日

出来るだけ御神書を読むようにする事である。それによって身魂が磨けるから、父親の反対も段々薄らぎ、再び信仰を取戻す事になる。焦らず時節を待つべきだ。
メシヤ講座

[メシヤ講座]信仰をする意味 2014年9月②(私達の学び目からウロコの内容より

「人間とは一体何か?」そういうものが分かってくると、こういうふうに、善悪を最終的に決定づけるまでしてはいけないということが分かってきます。
信仰

新人たれ (栄光 七十三号 昭和二十五年十月十一日)

本教は知らるる如く、世界の転換期に際し、全人類救ひの為に、誤れる文化に目醒めさせ、理想的新世界を造るにある以上、飽く迄新人たる事を心掛けねばならない。私がいつもいふ二十一世紀的文化人にならなくてはいけないと言ふのは、その意味である。
信仰

御講話 昭和10(1935)年11月21日※観音行

男でもなく女でもなく、また男であり女でもある。両方へみな観音様はかかっている。これが観音様のお働きを表わしたもので、どこまでも、これを本位で進まなければならぬのであります。
信仰雑話

霊線に就て (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

霊線、という言葉は今日迄あまり使われないようである。というのは霊線というものゝ重要性を未だ知らなかった為で、空気より稀薄な目に見えざるものであったからである。処が人事百般、此霊線による影響こそは軽視すべからざるものがあり、人間にあっては幸不幸の原因ともなり、大にしては歴史にまで及ぶものである
信仰雑話

我と執着 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

凡そ世の中の人を観る時、誰しも持ってゐる性格に我と執着心があるが、之は兄弟のようなものである。凡ゆる紛糾せる問題を観察する場合、容易に解決しないのは、此我と執着に因らぬものは殆んどない事を発見する
信仰雑話

順序を過る勿れ(あやまるなかれ) (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

心棒に近い処程少数者が担当し漸次遠心的に多数者となり、最外側のタイヤに至っては道路に接触する為過激の労働となる事によってみても、順序の何たるかを悟り得らるるであろう。故に、凡て主脳者たる者は、奥の方に引込み、頭脳だけを働かせ采配を振っておれば事業は発展する
信仰雑話

地震に就て  (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日) 

泥海が固体となるという事は大自然の硬化作用に因るので、硬化するに従い地球の容積は減ずる。所謂地殻の収縮である。此の地殻の収縮が地震の原因であるから、古い時代程地殻の収縮が大きい為、地震も大きかったのである
信仰雑話

下座の行 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

神様は慢心を非常に嫌うようである。謙譲の徳といゝ、下座の行という事は実に貴いもので、文化生活に於て殊にそうである。
信仰

之も慢心 (栄光 百二十一号 昭和二十六年九月十二日)

其證拠には今迄間違った信仰の為に、神様から裁かれ、人によっては命迄失った事実は沢山あり、古い信者は幾度も経験しているであろう、だから人の善悪を批判する前に、先ず自分の腹の中の善悪を見る事である。
信仰雑話

大乗と小乗 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

最後は経緯を結ぶ、即ち十字型とならなければならない。此意味に於て時所位に応じ経ともなり、緯ともなるというように、千変万化、応現自在の活動こそ真理であって、此十字型の活動が観音行の本義である。昔から観世音菩薩は男に非ず女に非ず、男であり女であるという事や、聖観音が・・
信仰雑話

迷信邪教 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

今日新聞雑誌ラヂオ等、盛んに迷信邪教に瞞(ダマ)されるなという事を警告してゐるが、成程迷信邪教は昔から断えず輩出してゐるばかりか、今日は最も甚しいようである。然し全部が全部迷信邪教とはいわれまい。その中の幾分かは今日立派な宗教として残ってゐるからである
信仰雑話

難行苦行 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

日本に於ても未だ相当バラモン式苦行を行う行者や宗教家もあるようであるが、私はあまり賛成出来ないのである。というのはわが観音教の信徒が別段難行をせずとも覚者となり、正しき道を履(フ)み、天職使命を実践するようになり得るからである。
信仰雑話

常識 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

先づ自己が幸福者たらんとするには他人を幸福にする事で、それによって与えらるる神の賜が真の幸福である。然るに自己のみの幸福を欲し他人を犠牲にするというが如きは全く逆効果以外の何物でもない事を知るべきである。
第十二篇「自観説話集」

信仰の種類 (自観叢書十二 昭和二十五年一月三十日)

右の中、どれにも該当しない信仰でありとすればそれは正しい信仰である。
御垂示録1号 

※御神体・お写真等 御垂示録1号 昭和二十六年八月八日 ①

《御垂示》 御神体です。それから病気とか、色んなお蔭を戴く時は御写真を先にする。やつぱり時期によつてそうするんです。今の時期は光明如来様が御神体として最高としてする。
信仰雑話

正しき信仰 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

「疑は信の初めなり」という事があるが、之は全く至言である。私は「信仰は出来るだけ疑へ」と常に言うのである。世間種々の信仰があるが、大抵はインチキ性の多分にあるものか、そうでない迄も下の位の神仏や狐、狸、天狗、龍神等を的(マト)としたものが多く、正しい神を的とする信仰は洵に少ないのである。
信仰雑話

誠 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

世界も、国家も、個人も、凡ゆる問題を解決する鍵は『誠』の一字である。
御垂示録1号 

※霊界 御垂示録1号 昭和二十六年八月五日 ②

やはり霊界の邪魔なんです。一時先方が勝つが、段々神様の力が強くなると、こちらが勝つ。ミロクの世迄この戦いは続くんです。
信仰

*最善を尽くして時を待つ 御光話録 昭和二十三年九月二十八日 奥付不明

メシヤというのはヘブライ語ですからちょっと日本語には解し難い。意味は救世主、救い主ということです。キリスト教の人はキリストが救い主だと信じているが、本当は贖罪主であって救世主とはたいへん違うのです。万民の罪を贖った人、罪の代表になり生命をギセイにして初めて許された人です
御垂示録1号 

*法は順序、お守り、御神体御垂示録1号 昭和二十六年八月一日②

あなたの個人の方が上になる。そう言う、順序が狂つている。それが、一つの法なんですね。だから、何んでも神様の方を先にしなければならない。主と従が、何んでもある。神様の事は何んでも主にして貰いたい。
信仰

観音講座 第三講座より ※伊都能売とは円満滑脱である(昭和十年八月五日)

玉の横の丶を上に掲げると主になる。玉の字は非常に貴い字である。伊都能売とは円満滑脱である。玉はくるくる自由自在にどちらへでも転んで行く。神様に角があっては善良な神様とは言えぬ。丸くならねばならん。丸いから転るのである。自由無碍に転るのである。
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不安なき社会を造る これが宗教の真の使命 (新宗教新聞三号 昭和二十七年五月二十五日)

現在世界において最も脅威とされているものは、何といっても極端な思想問題であろう。勿論これとても精神面に欠陥があるからで、この欠陥というのが無神思想に胚胎したものであるから、今後大いに有神思想の教化によって解決すべきであろう。
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御教え集32号 昭和二十九年三月六日 ※見真実

見真実というものは一番高い所ですから、其処で凡てを見下すからはっきり分るのです。結局この見真実を分らせるために私がいろいろ説いているのです。要するに信仰の目的は早く見真実になる事です。そうするといろんな事がよく分ります。けれども本当に見真実には、それは普通ではなかなかなれないのです。だからそれに近寄ればよいのです。
第九篇  「光への道」

間違ひ信仰 (自観叢書九 昭和二十四年十二月三十日)

何でも拝みさえすればいいという事は考えものである。というのは、その人の身魂の高下と因縁によって、拝む神仏も相応しなければ反って逆の結果になるからで、大いに慎しむべきである。
信仰

御教え集33号 昭和二十九年四月十二日 奈良県公会堂(後半 魂がスッカリ固まると、私の代理として立派に力をふるい、仕事が出来る)

あなた方は不断から知っているでしょうが、それを“これだ”という所までゆけば、魂がすっかり固まったのですから、そうするとそれによってその人の力が強くなるのです。それこそ私の代理として立派に力をふるい、仕事が出来るわけです。だから今言った事をよく心に入れて大いにやって下さい。
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御光話録 昭和二十三年八月二十八日(竜神系など)奥付不明

自分の我があると神様から教えてもらえる智慧をふさいで了って頂けないのです。ですから素直になる事です。世間には自分より偉い人の言葉はよく聞くが、下の人の言ふ事は聞かないといふ人が多いがそれが我なんです。下の人の言ふことを聞く事が雅量です
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伊都能売の身魂  (地上天国三十五号  昭和二十七年四月二十五日) 

信仰上の争いもよく検討してみると、ヤハリ小乗と大乗、即ち感情と理性との相違からである。だから其場合、経の棒を半分短かくし、緯の棒も半分縮めれば一致するから、円満に解決出来るのである
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大乗と小乗  (栄光八十一号  昭和二十五年十二月六日) 

十字の真中に心をおくとすれば、千変万化融通無碍の働きが出来るのである。即ち心魂を中心におく時はいとも小さいが、一度経緯へ拡がれば如何程でも大きくなる。そうして経の働きは厳として犯すべからざる父の如く、緯の働きは自由自在で春の如く、何人も懐かしむ母の如くでなければならない。
信仰

御教え集31号 昭和二十九年二月四日 立春祭御教え ※人間が善とか悪とか決めるのは大変な間違い等

人間、特に信者は、善とか悪とか決める事は大変間違っているのです。又分るものではないのです。ただ、自分が良いと思う事をして居ればそれで良いので、人が善いとか悪いとか言う、それが一番危険なわけです。なにしろ世界人類を救うというのですから、開闢(カイビヤク)以来ない大きな仕事なのです。お筆先に「大きな器には大きな影がさす。だから器が大きくなければ神の仕事はできんぞよ」というのがあります
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御光話録 昭和二十三年九月十八日  奥付不明 <東西文化の融合する所が日本>

マッカーサー元帥の書簡の中に「東西文化の融合する所が日本である」とあったがその通りです。皆が附けてゐるバッヂの真中の赤は日本を表しそこで縦と横が合一してゐる形を表してゐるのです。
信仰

御講話 昭和10(1935)年8月11日 〈信仰の妙諦はここだけ〉

陽気の不順なのは人間の心が不順で、変動が激しければ人間の心の変動が激しい。それがそっくりそのまま天気に出る。人の悪口を言ったり、悪いことを言ったりすると霊界が曇る。ある程度曇ると掃除されなければならぬ一つの法則ができている。従ってそれは風によって吹き払い、あるいは大雨によって水で流し、火によって浄化したりされる。もしそれが浄化されなかったら、ある程度まで人間は弱る。従って人類は栄えない。衰亡する
信仰

御講話 昭和10(1935)年8月1日

伊都能売に至って本当に人間としての行いができる。今日文化とか文明とかいうけれど、実はまだまだ四ツ足から離れていない。いまの人間は警察や軍隊などなかったら、どうなるでしょう。泥棒、強盗、殺人などで、とうてい生きて行かれぬ。そこを考えると、まだ人間でない。サーベルだの捕縄のようなもので取り巻かれていなかったら、悪いことをする。それが怖さに悪いことをしない状態で、みんな本当でない。
信仰

病気の原因と罪穢 『新日本医術書』昭和11(1936)年執筆

病気の原因は、汚血及び水膿の溜結であり、その汚血と水膿は精霊の曇の移写であるという事は、既に述べた通りであるが、しからば、その曇はいずれから発生流転して来たかというと、それが罪穢なのである。しかして、罪穢にも二種あって、先天的と後天的とのそれである。
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御光話録 昭和二十三年八月十八日 (信仰の小学校、中学校、大学)

“来月「信仰雑話」を出版するが信仰のない人でも判る様に書いてある。在来の宗教は宗教一点張りで外の事は説かなかったが、私のは千手観音式でいろんなものに手を出すのです
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御教え集18号 昭和二十八年一月三日⑤(霊界→言霊→物質) 

凡て順序というものは最初は頭の中です。これは霊界に出来るのです。それでこれを、こうしろああしろという言霊に出て、それから本当に物質が現われる、という順序です。それで今は頭の中の霊界では設計が出来てます。それで四月に行って、今度は言霊の設計をやるのです。そこで言霊というものは非常に重要なものです。それは誰がやる事でもそうです
大経綸

御講話 昭和10年5月1日 ※罪穢を除る機械ができれば、病気はみんな治る

病気の原因は一つですから、その病気の原因というのは罪穢であります。それで、その罪穢を除(と)る機械ができれば、病気はみんな治るのであります。治す方法は一つなのであります。その人の弱い所へ罪穢が溜まり病気になるのですから、その罪穢を除る薬なり、機械ができればよいのであります。それは、薬や機械では除れぬ
信仰

御講話 昭和10年4月11日

なにが人間は結構であるかというと、まずなによりかより第一番に健康であることは、いつもお話することであります。たとえ、いかなる結構な宗教や救いが出ようとも、人間を健康にする力がなかったら、決して結構な宗教でも救いでもない。