病気の原因と罪穢 『新日本医術書』昭和11(1936)年執筆

 病気の原因は、汚血及び水膿の溜結であり、その汚血と水膿は精霊の曇の移写であるという事は、既に述べた通りであるが、しからば、その曇はいずれから発生流転して来たかというと、それが罪穢なのである。しかして、罪穢にも二種あって、先天的と後天的とのそれである。即ち先天的は多数祖先の犯した罪穢の堆積綜合であり、後天的のそれは、自分自身の犯した罪穢の堆積である。

 まず第一の祖先の罪穢を、悉(くわ)しく述べてみよう。今、現在生きている吾々個人は、突然と涌(わ)いたところの、いずれにも係りのない存在ではなくて、実は何百人か何千人か判らない、多数祖先の綜合されて一つになった、その尖端に存在呼吸する一個の生物であって、それが、無窮に継承されてゆく中間生命の、時間的個性の存在である。大きく観れば、祖先と子孫とを繋ぐ連鎖の一個であり、小さく言えば、親と子を繋ぐ楔子(くさび)でもある。

 祖先の罪穢に依る病気なるものを、徹底的に説明するには、どうしても死後の生活、すなわち霊界の組織状態を説かなければならないから、大略を述べる事とする。

 人間が一度現世を去って、死の関門を通過するには、肉体という衣を脱ぎ棄てるのである。人間の肉体は現界に属し、霊体は霊界に属しているものであるから、肉体が病気又は老齢の為に、頽廃(たいはい)して使用に耐えない以上、精霊はその不用化した物質である肉体を捨てて霊界に往くのである。そうして霊界において再び現世に出生する準備をしなければならない事になっている。その準備とは浄霊作用である。しかるに大部分の人間は、生存中における罪の行為による穢が相当に多いので、霊界においての厳正公平なる審判に遇って、大方は地獄界に堕ちて行くのである。地獄界に堕ちた精霊は、罪に対する刑罰の苦難によって、僅かながらも一歩一歩向上してゆくのであるが、その際罪穢の浄化による、残渣(ざんさ)とも言うべき霊的汚素が、現世に生を営みつつあるその子孫に向って、絶えず流れ来つつあるのである。それは祖先の綜合体である子孫の個人が、罪穢を分担するという、一種の因果律的贖罪法である。これは万物構成における主神の神律である以上、いかんともし難いものであって、人間はこれに服従する以外、何事も出来得ないのである。それはこの霊的汚素が、人間の脳脊髄へ向って絶えず流動し来り、その汚素が人間の精霊に入るや、忽(たちま)ち物質化するのであって、その物質化が膿汁である。これがあらゆる病原となるのである。

 第二の個人の罪穢を説いてみるが、これは誰しもよく判るのである。いかなる人間といえども、生来、絶対罪を犯さないで生きてゆくという事は、出来得べからざる事である。しかし罪にも大中小、千差万別あって、例えば、法律上の罪もあれば、道徳上の罪もあり、社会的の罪もある。また行為に表われる肉体的の罪もあり、心で思うだけの精神的罪悪もある。基督(キリスト)がいった、女を見て妙な心を起しただけでも、姦淫の罪を犯す事になるという戒めは、厳し過ぎるとは思うが、間違ってはいないのである。かように、たとえ、法律を侵さないまでも、小さな罪、即ち日常、彼奴は憎いとか、苦しめてやりたいとか、姦淫したいとか想うのは、誰しも罪とは思わない程の微細な事ではあるが、これらも長い間積り積れば、相当なものになるのである。又、競争に勝つとか社会的に成功するとか、とにかく優越的行為は敗北者から怨まれ、羨望される。これらもその恨(うらみ)に依って、一種の罪となるのである。又、殺生をするとか、怠けるとか、人を攻撃するとか、物質を浪費するとか、朝寝するとか、約束を違えるとか、嘘言を吐くとか、いう様な事も知らず識らず侵す一種の罪である。かくの様な数限りない罪は、小さくとも長い間には、相当な量となるので、それが精霊へ曇となって堆積さるるのである。しかし、生れて間のない嬰児は、後天的の罪は無いであろうと思うが、決してそうではない。すべて人間は、親の膝下(しっか)を離れて、一本立になればともかく、親によって養われてる間は、親の罪穢も分担する事になっているのである。ちょうど、樹木にたとえてみれば能く判る。親は幹であって、子は枝であり、その又枝が孫である。幹であるところの親の曇は、枝に影響しない訳にはゆかないのと同じ理である。

 この後天的罪穢は、明白に判る場合がよくある。その二、三の例を述べて試(み)よう。人の眼を晦(くら)ました結果、盲になった二つの例がある。以前浅草の千束町に、経銀という表具師の名人があった。彼は贋物を作るのに天才的技術を有(も)っており、新書画を古書画に仕立上げて売付け、何十年もの間に相当な資産を造ったのであるが、晩年不治の盲目となってから暫くして死んだのを、私は子供の時によく遊びに行っては、本人から聞かされたものである。今一つは、やはり浅草の花川戸に花亀という道具屋があって、ある年静岡地方の某寺の住職が、その寺の本尊を奉安して、東京で開帳をしたのである。ところが、失敗して帰郷の旅費に困り、その御本尊を花亀へ担保に入れて、金を借りたのである。その後金を調えて、御本尊を請けに花亀へ行った所が、花亀は御本尊の仏体が非常に高価な買手があった為、売払ってしまったので、彼は白々しくも、預った覚えはないと言切って、頑として応じなかった。そこでその僧侶は進退谷(きわま)り、遂に花亀の軒下で首を溢って死んでしまった。ところが、花亀の方では、仏像で莫大に儲けた金で商売を拡張し、その後トントン拍子に成功して、その頃数万の財産家になったのであるが、晩年に至って盲目となり、しかも、その跡取息子が酒と女狂で、忽ちにして財産を蕩尽し、ついには見る影もなく零落し、哀れな姿をして、老妻女に手を引かれながら町を歩く姿を、私は子供の時よく見たので、その謂(いわ)れを父から聞かされたのであった。これは全く僧侶の怨念が祟(たた)ったのに違いはないのである。今一つは親の罪が子に酬(むく)った話であるが、それは以前私が傭っていた十七、八の下女であるが、この女は片一方の眼が潰れて、全く見えないので、訊(き)いてみた所が、以前奉公していた家の子供が空気銃で過って、眼球を打ったとの事であった。なお訊いて試(み)ると、その下女の親爺は、元、珊瑚の贋玉で非常に儲けたとの事で、それは、明治初年頃、護謨(ゴム)等で巧妙な珊瑚の贋玉が出来た。それを田舎へ持って廻って、本物として高価に売付け、巨利を博したとの事で、その贋玉を高く売付けられた人の怨みが大変なものであったろうと思う。全くその罪が子に酬って、眼の玉を潰したのである。しかもその女はなかなかの美人で、眼さへ満足であったら、相当の出世をしたろうにと、惜しくも思ったのであった。今一つの例は、手首の痛む老人が、治療に来た事があった。十日以上も治療したが、なかなか良くならない。不思議に思って、その老人の信仰を訊いてみたところ、〇〇様を二十年以上も信仰していると言うのである。そこで私はその為であるから、それを拝むのを罷(や)めさしたのであった。ところが拝むのを罷めた日から、少し宛(ずつ)良くなって、一週間程で全快したのであったが、これに似た話は時々あるのである。正しくない信仰や、間違った神仏を拝んでいると、手が動かなくなったり、痛んだり、膝が曲らなくなったりする例が、よくあるのであって、これは全く間違った神仏を拝んだ、その罪に因るものである。

 これらの例によって察(み)るも、後天的の罪穢も軽視出来ないものであるから、病気や災難で苦しみつつある人は、この後天的罪穢をよくよく省みて過(あやま)っている事を発見したなら、速かに悔悟遷善すべきである。今一つは別項種痘の記事にあるごとく、陰性化せる天然痘の毒素である。故に病気の原因は、先天的の罪穢及び後天的の罪穢及び天然痘の毒素の、この三つが主なるものであると思えば、間違いないのである。

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