霊線に就て (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

 霊線、という言葉は今日迄あまり使われないようである。というのは霊線というものゝ重要性を未だ知らなかった為で、空気より稀薄な目に見えざるものであったからである。処が人事百般、此霊線による影響こそは軽視すべからざるものがあり、人間にあっては幸不幸の原因ともなり、大にしては歴史にまで及ぶものである。故に人間は此霊線の意義を知らなくてはならないのである。

抑々霊線なるものゝ説明に当って、前以て断っておきたい事は、之は科学であり、宗教であり、将来の学問でもある。相対性原理も、宇宙線も、社会や個人に関する凡ゆる問題も、霊線に関係のないものはないのである。先づ人間と霊線の関係から述べてみよう。

茲に一個の人間がある。先づ読者自身と思ってもいい。その自分は、自分に繋ってゐる霊線なるものが、何本か、何百本か、何万本か、測り知れない程あるものである。霊線には太い細いがあり、長い短いがあり、正もあり邪もあって、それが絶えず或程度の影響、変化を人間に与えてゐる。故に人間は霊線によって生存を保ってゐるといっても過言ではない。その中で夫婦が繋っている霊線が最も太く、親子はそれに次ぎ、兄弟、伯父、甥、従兄弟、友人知己等順々に細くなってゐる。昔から縁(エニシ)の糸とか、縁が結ばれるとかいうのは、此事を言ったものであろう。そうして霊線は常に太くなったり細くなったり変化してをり、夫婦仲睦じい時は太く光があり、争う時は或程度細くもなり、光をも失うのである。親子兄弟其他も同様であるが、之以外霊線が新しく作られる事がある。それは新しく出来た知人友人、特に恋愛等の場合であって、恋愛が高潮に達するや無制限に太くなり、両方の霊線が激しく交流する。それが一種微妙な快感を与え合うと共に、一種の悲哀感、寂寥感をも反映し合ふのである。終には霊線は極度に強力化し、到底別離し能わざるに到るのは右の理に由るので、斯ういう場合第三者が如何に説得しても何等効果がないばかりか、反って熱度を増すようになるのは誰も知る通りである。相愛は恰度電気の陰陽が接触して電力を起すようなもので、其場合電線の役目をするのが霊線である。私は以前同性愛に陥った女学生が、情死をしやうとした一歩手前で助けた事がある。それは一方の陽電の方を霊的に消滅さしたのである。凡そ一週間位で成功し、陽電女性は愛着の情熱が冷却し平常の如くなったと共に、相手の女性も平常に復したという経験がある。然し乍ら他人の霊線は打切る事が出来るが、血族は打切る事が出来ない。次に親子の霊線には注意すべき事がある。それは絶えず親は子を憶い、子は親を憶うので、双方反映し合っているから、子供の性質は霊線を通じて親の性質を受入れる事になるので、親が子を良くせんとする場合、先づ親自身の心を良くしなければならない。世間よく親が道に外れた事をし乍ら子に意見をしても、余り効果が無いのは其為である。然し斯ういう例もよくある。それはあんな立派な親であり乍ら、息子はどうしてあんなに不良であるのかといって不思議がるが、この親は功利的善人で、外面は善く見えるが魂は曇ってゐる為で、それが子に反映するからである。次に兄弟で一方が善人で一方が悪人の場合がある。之はどういう訳かというと、前生の関係と、親の罪の原因とがある。之に就いて説明してみよう。

 此説明に当って人間再生の原理から説かなければならない。先づ簡単に説明すれば、人間は死後霊界に往く、即ち霊界に生れるのである。仏教で往生というのは「生れ往く」とかくが霊界から見ればそういえる訳である。然るに霊界は、その人が現界に於て犯した種々の罪穢に対し浄化作用が行はれ、或程度浄化された霊から再生する。然るに前生に於て悪人であった者が、刑罰や其他の事情で死に際して悔悟し、人間は悪い事は決してするものではない、此次生れ更(サラ)った時は必ず善人になろうと強く意(オモ)ふので、再生するや大いに善事を行うのである。此理によって現世生れ乍らの善人であっても、前生は大悪人であったかも知れない。そうして人間は生前に死後の世界在るを信じない人が多いから、死後霊界に於て安住が出来ず、生の執着によって浄化不充分のまゝ再生する。その為に罪穢が未だ残存してゐるから、その残存罪穢に対し現世に於て浄化作用が行われる。浄化作用は苦しみであるから、生れ乍らの善人であり乍ら不幸であるのは、右の理に由るのである。又生れ乍らにして不具者がある。例えば盲目とか聾唖、畸型とかいうのは、変死に因る死の為、その際の負傷が浄化半途にして再生するからである。此再生に就て今一つ顕著な事実をかいてみよう。嬰児が出産するや、その面貌が老人の様なのがよくある。之は老人が再生した為で、二、三ケ月経ると初めて赤児らしき面貌になるもので、之は経験者は肯くであろう。
 
 次に親の不正な心が兄弟の一方に反映して悪人となり、親の良心が反映して善人となる事もある。又斯ういう例もよくある。親が不正の富を積んで、資産家になった場合、祖霊はその不正の富を蕩尽しなければ一家の繁栄は覚束(オボツカ)ないから、その手段として子の一人を道楽者にして、金銭を湯水の如く使わせ、終に無財産にまでするのである。斯の場合道楽息子に選ばれた者は、実は一家を救うべく立派な役をしている訳で、それを知らない人間は親の財産を潰した怪しからぬ奴と見做すが、寧ろ気の毒な訳である。

 霊線は人間に於ては生きてゐる親近者のみではない。死後霊界に於ける霊とも通じてをり、正神に連結してゐる霊線もあり、邪神に連結してゐるそれもある。正神は善を勧め、邪神は悪を勧める事は勿論で、人間は常に正邪何れかに操られてゐるのである。そうして霊界に於て或程度浄化されたるものが守護霊に選抜され、霊線を通じて人間の守護をする、即ち危難の薄(セマ)れる現界人に対し、危険信号を伝えて救おうとする。此例として汽車などに乗車せんとする場合、時間が間に合わなかったり、故障があったりして乗り損ね、次の汽車に乗る、すると乗り損ねた汽車が事故に遭い、多数の死傷者が出る等の事があるが、之等は守護霊の活動に因るのである。守護霊は現界人の運命を前知し、種々の方法を以て知らせようとする。

 霊線は人間の階級に従って数の多少がある。数の多い人、例えば一家の主人なれば家族、使用人、親戚、知人。会社の社長ならば社員全部、公人ならば村長、町長、区長、市長、知事、総理大臣、大統領−−国王等、何れも其主管区域や、支配下に属する人民との霊線の繋りがあり、高位になる程多数となる訳である。此意味に於て、各首脳者たるべき者の人格が高潔でなければならない。主脳者の魂が濁ってゐれば、それが多数に反映し多数者の思想は悪化するといふ訳であるから、一国の総理大臣などは智慧證覚に富むと共に、至誠事に当るべき大人格者でなくてはならないのである。然るに国民の思想は悪化し、道義は頽(スタ)れ、犯罪者続出するが如きは、為政者の責任となる訳である。特に教育者の如きは、自己の人格が霊線を通じて学徒に反映する事を知ったなら、常に自己の霊魂を磨き、師表として恥しからぬ人とならなければならないのである。

 特に宗教家であるが、一宗の教祖、管長、教師等に至っては、多数の信徒から生神様の如く讃仰される以上、その霊魂の反映力は著しいものであるから、大いに心すべきである。然るにその高き地位を利用して面白からぬ行動のあった場合、信徒全般に反映し、終には其宗教は崩壊の止むなきに立到るので、此様な例は人の知る処である。

 霊線は人間計りではない、神仏からも人間に通じさせ給うのである。ただ人間と異る処は神仏からの霊線は光であり、人間の霊線は上魂の人で薄光位であり、大抵は光のない灰白線の如きもので、悪人になる程黒色を帯びるのである。世間よく友人を選ぶ場合善人を望むが、夫(ソ)れは善に交われば善となり、悪に交れば悪になるという訳で、全く霊線の反映によるからである。

 神仏と雖も正邪があり、正神からの霊線は光であるから、常に仰ぎ拝む事によって人間の霊魂は浄化されるが、邪神は光処か一種の悪気を受ける事になるから、思想は悪化し、不幸の人間となるのである。故に信仰する場合、神仏の正邪を判別する事が肝要である。又正神と雖も、神格の高下によって光の強弱がある。そうして高位の神仏程その信徒に奇蹟の多いのは、霊線の光が強いからである。以上、人間に関する霊線の意義を概説したが、人間以外の事象にも霊線の活動がある。それは人間が住居してゐる住宅、平常使用し愛玩してゐる器物、特に愛玩の物ほど霊線が太く、衣服装身具等もそうである。斯ういう話がある。以前米国の心霊雑誌中にあった記録であるが、或一婦人は不思議な能力を持ってゐる。それは器物によってその持主の人相、年齢、最近の行動等が判るそうで、其場合器物を熟視すると、その器物の面に写真の如く顕われてゐるとの事であって、之は霊線によって印画されたものである。之によってみても霊線の活動は、如何に幽玄微妙であるかが知らるゝのである。

 近来宇宙線なるものを科学的に研究してゐるが、之は私の見る処によれば星と地球と連結してゐる霊線である。元来地球が中空に安定してゐるという事は、地球周囲の衛星の霊線が地球を牽引してゐるからである。故にその霊線の数は何万、何億あるか測り知れない程の数で、地球の中心部にまで透過してゐるのである。序でだから、私は天体と地球との関係について聊(イササ)か述べてみよう。

 元来天体と地球とは合せ鏡の如くになってゐる。そうして星には明暗二種あり、即ち光星と暗星である。暗星は全然光がないから人間の眼には映らないが、年々光星に変化し、増加する。何故暗星が光星に変化するかというと、それは宇宙物質の硬化作用によるので、硬化の極点に達した時光輝を発し始めるので、地球にある最硬化の鉱物が、最も光るダイヤモンドであるのと同一の理である。従而地球創造の当時は、星の数は暁の星の如く少かったもので、星の数の増加と地球上の人類の増加と正比例してゐるのである。故に向後星の数も、人類の数も、如何程増加するか量り知れないものがあろう。よく天文学者が新星を発見するが、之等は暗星が光星に変化し、人間の眼に映じ始めた為である。又流星は星の分裂作用であり、隕石は其際の破片である。星にも木火土金水の巨星を初め、大中小無数の星があるが、之等も悉く地球人類に反映してゐるので、右の五星はその時代に世界的人物五人ある訳である。人間を星に準(ナゾラ)へ、著名な人物に対し、巨星往来とか、巨星墜つとかという事も、面白いと思ふのである。

 秦西に於ても星占いの頗(スコブ)る盛んな時代があって、僧侶がそれを行い、人間の吉凶禍福、病気判断等に利用したりして一世を風靡したという事が史実にある。支那の易学にも九星を本義とした等、反って古代人が星に関心を有ってゐた事は無意味ではなかったと思うのである。

 又火星の生物説であるが、これは誤りである。私の解する処によれば、生物は此地球だけであって、而も大宇宙の中心が地球であり、万有は人類の為の存在であるから、人間は如何に尊いものであるかを想うべきである。

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