観音講座  第七講座   病気及絶対健康法の原理

病気及絶対健康法の原理

 この講座は観音講座としては最も眼目である。又特に平時から講習してあるから重複するのもあるが、我慢して聞いてもらいたい。

 西洋医学の間違い、これを一般に判らせねばならんが、当局者の方では警戒しております。西洋医学の外はなく、これ以外には何物も出ないと定まっているので、我々の主張を入れない。非常にこの点困難だが、そうかといってそれを見ておられない。世間には病気にかゝり財産をなくし家族一般餓(うえ)に泣く有様が現在なのであるから何としてもやらねばならん。

 これを捨てて他山の石として見通すことは断然出来ないのである。非常時どころの問題ではないのである。

 政治問題や機関説等より何十層倍肝腎なことだか判らんのであります。

 しからば西洋医学はどうして間違っているか。西洋医学は絶対に癒(なお)らんと言うことを前提としてお話する。西洋医学では癒らん所か、癒るべき病気を悪くしているのであるから世界的の大問題である。

 この事についての例は沢山ある。

 神田の滝川病院で三つの赤ちゃんを麻疹(はしか)と判り切っているのに百回以上注射し、日限は百日以上たっても微熱が下らんのでこれは肺尖が悪いと言っているが全然違っている。これは薬の中毒であるのを知らないのである。観音力ならば十日かそれ程かゝらずに治り、呑気な人ならば放って置いても十日か二十日位で治らんことはないのに、金を何程使ったか判らぬと言う有様である。世の中でこれを知ったら非常な問題である。これを観音様から知らされたり又色々で知ったのである。世に知らせ、医者に知らせて根本的に修業の行(や)り直しをさせねばならん。

 なぜ西洋医学は間違いか、という問題になるが、これは体的療法であるからである。人間を構成しているものは二つから成る。それは霊と体である。昔から陰陽二つで何事も成立っている。天あらば地、火あらば水、神あらば仏。

 人間は体ばかりではないことは判り切った事である。霊が脱出するから死ぬのだ。西洋医学は体を本位とし、日本医学は霊を本位としているから反対である。病気の元は霊にあるのである。それを知らずに体のみを治すのであるから癒らんのは当然の事である。神=仏 心=物 霊=体。

 上記のごとく嫌な事は結果であって、元は悪心からである。悪心を直さねばこれらの結果は永久に止まぬのであることは皆様既に御承知の通りである。枝葉末節もはなはだしいことである。肺病なれば肺病の起って来たものを研究している。それには何か必ず元がある。その根木を研究せねば治らんのは当り前である。

 西洋医学の起源

 西暦千八百五十五年ウ(フ)ィルヒョウが細胞病理学を作りそれより医学が始まったのである。この時から枝葉末節医学が始ったのである。

 現在上層下層の両社会及資本家及労働者等においていろいろの問題が起りつゝある。

 この上層の人達の行為の結果が上記になるのである。この問題は自分等が間違っている行為により結果を生じさせて又自分等が困り苦しんで居る問題なのである。資本家が間違っているから赤化が起り、自分達で作った原因より起った問題の直し方を研究しているのである。

 学校で宗教科目を取り入れんとしているが、これは仲々出来る問題ではない。西洋はキリスト教一つだからよいが、日本は八宗九宗あり、神道あり、新興宗教もあり、この為出来ぬのである。しかしながら我々の方なればこの問題は何でもないのである。とにかく、日本の天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)は日本の中心の神様で御皇室の御先祖の神様であるからこれを方々へ祭ればよい。各宗教はこの天照皇大御神の御顕現であるから元の神様を祭ればよい。これ以上の事はないのである。ところが我が日本の人々はこれを忘れたのか知らんのか行(や)らないところが不思議だ。

 内閣の閣議の時に閣議室の最高座に天照大御神様を御祭りして置いて御神前で最初にお祭りして閣議を開くのである。貴衆両院としても同じ事、政党も本部上座へ神殿を造り御神殿の前を会議室と定め、祝詞を奏上して党議を決する。各官庁も勿論各学校においても、天照大御神及御真影を御祭して天津祝詞は短いからこれを一同にて奏上してからかゝる。会社工場等も各家庭にも及ぼせばこれだけで選挙粛正はうまく行くのである。

 この選挙粛正問題に対し、神主や坊主を頼んでいるが、反って坊主は反対している有様であるが、これらは泥縄式である。今の政治は体ばかりの政治なる為甘(うま)く行かぬのである。

 天照皇大御神

 天照皇大御神を無視しているのである。天照皇大御神様を無視する事は我皇室を恐れながら無視していると言われても致し方ない訳である。町内の会合は産土神社で行えば良い。いかにしても今後この通りになるのであるからそれをやれば良いのだ。産土神社の前で協議すれば利権や賄賂の問題なぞは起きない。今の諸々(もろもろ)の会合はほとんど料理屋や待合で芸者上げて巫山戯(ふざけ)ながら行っている。この様なことで何が立派なことが出来様か。そんな事で気の入った政治あるいは会議は絶対に出来ない。それのみならず余分の金がかゝる。その金とても稼がねばならん。役所の会議ならばこの費用は細民の汗を滴(したたら)して出来る金を無理矢理に取り上げた様な金も混っているのである。この様な濁ったところですれば濁った想念になるから正しい結論は得べくもないはずである。上流濁れば下流濁るのは当りまえである。反対に下流濁る事ある共その上流に及ぼす事はないのである。誠に上流にある者は心すべきである。

 上流社会が悪いから教育家等も悪くなる。そんな教育家が正成や清麿や二宮金次郎のお話をしたとて駄目なのは当り前である。先生の心正しければ生徒が心正しく真似るものである。先生の心悪しければ生徒も又これに似るのは当り前である。

 現在この西洋式学校で西洋式学問を詰込んでも駄目だ。なぜ駄目か。目に見える物より外教え無い。(空気以外)神様さえも無い事に心に定めておるからである。神様を拝んだことさえない教員が伊勢神宮、明治神宮等には児童を参拝につれて行くのさえ彼等には矛盾している事である。

 天皇機関説も確かに悪い事であるが三十年間打っちゃっているんだからむしろ政府初め学者政治家の方が不思議な事である。今頃になって人から騒ぎ出されて致し方なしにやっているのである。全部取消す必要はない。悪いところを除ればよいのだ。次の問題は何か。それは日本の国家は外国とは違うということである。外国とはどこが違うか。天皇陛下は外国の皇帝と違うということである。外国の皇帝は力でなったものである。我日本の天皇は万世一系で天照皇大神の御霊統である事となるならば日本の天皇陛下の古代に遡って行くと神様ということになる。神様がなければ外国と同じになるが日本は天照皇大神様の御系統である。神を認めなければ日本の国は成立しないのである。一有って二つとない日本の天皇である。現在まで厳然と生通しである神様である。主神(すしん)様が絶対に有ると認めなければこの説は成立しない。

 日本の学問は全部改革しなければ駄目である。日本の神様が有る事を絶対に認めねば日本の学問は駄目である。日本の学校も新たにしなければ駄目だ。西洋学校そのまゝでは駄目だ。この点をハッキリせねば日本の医学は判らんのだ。

 観音力と言っても、そんなものは有るかと言って終(しま)えば判らんのである。活気凛々として日本の神様は昔より今もなお生きておられる事が判らねばならんのだ。病気の根本はこれでなければ駄目である。

 今後は神を主として仕事は従でなければ駄目である。霊が従などは間違いだ。本末顛倒もはなはだしい。西洋医学は体主霊零だから絶対病気は治らんのである事が明かに判るのである。

 病気の初めは霊に曇りが寄って来る。この曇りが出来る為に血が濁る。この血は霊の物質化したものである。人が死ぬと血が非常に減ってしまうのだが、医学は血は凝結して終うのだと言っているが、ただ単に凝結するが為にあれ程減少するのでは決してない。血の中から何か減るから凝結して少し、ホンの少しばかりになってしまうのである。この沢山ある、この血液を多量にしているのは霊が物質化しているからなのである。死亡するとこの霊が抜け出すから自然いつとはなしに減少して来るのである。この濁った血が益々多くなり、それが浄化作用を起すと浄化された粕が白い物になる。この白い粕は白色原〔元〕素となり、濁った血のところから放出されているのである。人体には漿液があるが、この漿液の中へ白色原素が溜るとそれが膿となる。水膿とはこの淡(うす)いものであります。それが段々膿液となるのである。この膿液が段々濃くなり、多くなるに従い病気が発生するのである。故に霊体の曇りが病気の原因であり肉体へ出たのは結果なのである。支配階級の人が原因を出しておきながら下級の赤化を直そうとしてもこれは絶対に直らんのもこの病気と同様の意味である。

 一例を申せば、二ケ月もかゝって瘍(よう)を手術した。瘍は癒ったが霊の曇りが除れんから又隣へ出る。又一ケ月もかゝって切って癒ったが又出来た。医者には千円も支払ったのである。ところが又出来た。今度は私が一週間で金八円で癒したのである。この様な事で医者は霊の曇りが何で出来るかと言う根本を研究せずに、ただ結果である瘍を切るから何回でもその又隣りへ出来る訳であって、医者は細胞に曇りが出来た事が原因だと思いレントゲンを掛けたりするが、霊を知らないものには判らんのが当然であります。

 膿の極く濃いものは癌であります。組織を破壊されてしまう病気である。水膿の濃くなるのが結核であるが、その又濃いのが出ると細胞の組織を破壊されるのである。これが即ち癌である。

 膿も黄色から白くなり、透明な水のごとき漿液となるのである。これは霊気で浄化されるからである。

 横痃(よこね)(梅毒の股へ出たもの)は黄色い水が出る。二週間位で癒ったが、医者にやらせると汚いどろどろの赤貝のごときものが出るが、霊的にやれば溶けて水となるのである。曇りはどうして出るかと言うと、霊体の弱いところへ出るのであるが、その原因は祖先のと自己の罪穢であって、なぜ曇りが弱いところへ出るかと言うと、同じ頭を使うにしても善に使うとか悪に使うとかで差が出来るのである。悪に使えば頭が弱くなる。又善に使えば強くなるのである。発明家は強くなる。

 肺病は肺が弱いのであるが、それはどうかと言えば肺は空気を吸い、心臓は霊気を吸っているのである。太陽熱を吸っているのである。肺病は熱が出て来る。


 キリスト教では一人の神と言うが本当である。
 天照大神の外は神が無いから「命」の字を書くのが本当である。
 尊は上の神で真の神であるから、命は臣であり現界は民である。

 なぜ肺臓が弱るかと言うと愛が不足しているからである。肺は水なり。水は火によりて動くのだ。肺は心臓の熱によりて動くのである。心臓の熱の少いのは愛が少いのであるから愛の行いをすればよいのである。総てを愛するのである。その根本として観音様を拝む様にするのである。観音様を拝むと前には人が笑っておれば癪(しゃく)にさわるといって怒っていたのがお祭りしてから反って嬉しくなり楽しくなったというのである。これは実例なのである。

 心臓の悪い人は理性に乏しいのであります。心臓の火の燃えている原因は水分が沢山あるから、続いて燃えているのであって水が沢山ある中(うち)はよいが水が足らんと理性に乏しいことになるのである。パーッと燃えるだけだからである。観音様は火と水との働きであるから両方を程よく下さるのである。

 胃の悪いのは物質を粗末にするのが原因である。贅沢を言う人の胃の悪いのはこの原因である。何んでも不味い物でも食べる人は胃は丈夫だ。総て感謝がなければいけないのである。常に感謝の生活をして居れば胃に罪は起らんから常に胃は丈夫で病気は起らんのである。心すべき事である。

 腹は地下に相応するのである。腹は地熱であるから、胃の物が腹へ下って清算される事となるので、胃へはいったものは総て腹へ下って行って清算される事となるので、ちょうど土も下へ穢い物を濾(こ)して水を下へ下(くだ)して地下水となり、又汲み出されては使用されて、この様に、腹は悪い物は濾して粕は糞として下へ出し、水分は小便にして腎臓へ送る。又良いものは肝臓へ送るのである。肝臓とはこの意味からきたものである。この様にしてこれへ肉をつけ皮をつけるのである。

 肺が悪いと寝汗をかくのが普通である。

 心は火なり。心の字は八に丶丶を横に打ってあるが、八に跨がせれば火となるのである。

 心臓は肺に囲まれているのである。

 子供は何かと言うと親の世話になっている内は連絡している。この親の罪が移るのである。子供の病気は何かと言うと子が親の罪を移されるのであります。親に必要な事があっても罪があって病気になる様な時、その親を使わねばならぬ用事が出来ている為親の罪を子に負わせているのであります。親に用事がある時はその子に移すのであるが、子の死ぬ場合があるが、これは親の代りになって行くのであります。

 人体全体の曇りはどこから来るかと言うと祖先から来るのである。祖先と現在の人間との間は霊線で繋っているのである。

 医学では遺伝といっているが、この遺伝も事実遺伝せぬ時もあるのであるから、遺伝学説も絶対とはならなかったが、しかしこの事は絶対なものであるが、その間に偉い人が出て徳を積むとその徳によりその罪が除かれるから切れて終って遺伝せぬ事になるのである。この遺伝は絶えず霊界から流れて来るのである。祖先は霊界において審判されて浄化されるからその審判され洗われた罪が現界人へ流れて来るのである。

 祖先等が霊界から飛出して来て憑るのは生前無信仰の為霊界へ行っても所属すべき団体がないので行くところがないので致し方なく出て来て自分の子供へ憑くので病気になる。

 祖先の罪穢は脊髄を中心にして来る。祖先―頭―脊髄―尾―子孫。我々は現在子孫だから尾である。男も女も皆子孫であるからこれより来ているのである。この脊髄へ流れて来た罪穢は下へ降って方々へ行く。頭、目、鼻、心臓、腎臓とどこへでも行くのである。脊髄は万病の源である。

 万病は自然に癒るが、それにつき痛み、熱、痰、毒血を吐く。腫物、下痢、毒血の下るのは赤痢であるから毒血が出て終えば一日位で癒る。罪穢は脊髄の三分の一位の所と尻へ出て来るのが普通である。

 病気は霊の曇りから出ると前にも話したが、この曇りが毒血となるのである。これがある程度となると、解消運動が自然に人体内において起るのである。この解消運動が始まると、自然に浄化された粕は排出されて癒るのである。霊界に曇りの溜った時は大雷、台風、大暴風雨となり解消するのである。この天地の諸々の現象なき時は世界人民の間にどの様な病気が起るかも判らんのである。

 神様は御慈悲の為に天地の自然現象の様にしてこの曇り穢れたる世の中の御清潔をなされ、病気の根源を掃除して下さるのである。人間に曇りが出来ると台風や大暴風雨が体内に起りてこれの解消運動が始まるのである。

 曇りの濃くなったものを溶かす為に心臓が太陽熱を吸収して曇りへ送ります。曇りへ太陽熱が送られるから熱が出る。それにより腫物になって毒が出るのである。この毒の体外へ腫れ出た時充分膿(う)ませるのである。充分膿むと図の様に外部へ突出して来る。そして自然に吹き切って膿(うみ)が出て癒るのである。

  この状態になった時ならば、切っても良いのであるが、充分膿んだ時切れば、全部毒が出て終うから忽(たちま)ち全快するが、医者に切って貰うにも充分毒が出て来て突出た時ならば全快するのであるが、医者は直ちに切開するため、未だ奥の方に沢山膿があるのを外部だけ切り取るから、又その隣へ毒が出て又腫物が出来るのである。又切れば又出来る。何回でも繰返すのである。充分出た時切れば一回で治るのである。観音力で治せば浄化するから痛まず癒り、膿が淡(うす)くなるから早くなるのである。




 子供の疫痢も最初は胎毒(水膿)が胃へ来るのであってその為に吐いたり熱が出るのである。それを医者は吐いたり熱が出て自然治癒工作をしているのを止めるから自然治癒の妨害をするのである。

 西洋医学は治癒の妨害であるから治らんのである。氷で冷すのは最も悪いので、治すには熱が必要であるのを反対に冷すから熱の活動を止めて終う為癒らんのである。反って悪くなるのは当然である。熱が出て毒を道筋方面へ送ろうとするのを冷すから道筋方面へ行けずこれが肺の辺りへ寄るから肺気腫なぞになるのである。腫物の出来て腫れるのは活力があるからよいのであります。

 活力がなければ腫れ出る事が出来んから膿を取る事が出来ぬ。これを永く続けて居れば死ぬより外に仕方がなくなるのは当然なのだ。腫れ物を捨てゝ置けば腫れて膿が出て終うのを医者のある国に生れ医者を保護する法律のある国に生れたのが不幸なのであります。

 薬は皆逆作用を来すのである。便秘、胃病等はこれである。葡萄糖注射も悪い。便秘は下剤を飲むから反って便秘を起す事になるのである。カルシューム注射も悪い。これは水分の少い人又は体に熱のある人等が便秘する。これらは水分を多く採ればよい。それでない人は熱をとれば便秘は癒るのである。下剤をかけると薬により下るから大便を出す機関が退化して働かなくなるから益々便秘する様になるのである。薬を飲んで治そうと飲めば飲む程便秘するのである。胃が悪いから薬を飲む。飲むから働かぬ様になる。働かぬから又飲む。鼬(いたち)ごっことなり胃病となり、胃癌となり、喰えなくなるからブドー糖注射をやる。それにより又働かなくなる。この内に死ぬより仕方なくなるので誠に気の毒な事である。カルシューム注射をすると一時肥るが、その内に痩せて来て駄目になるのである。蕁麻疹(じんましん)はカルシューム注射の中毒である。出来物に薬を塗るとおできが治らぬ様に薬で止めるから全治しない。一時治ったと思い、又治った様に見えるのは引込んだのであるから又その内に出て来るのである。薬を飲むと胃に入り腹に入り心臓に入る。食物は良いが薬は心臓に入ると血液が濁る。血液が濁れば体が弱るのである。注射液は直接心臓に入りて血に混じるから一層悪いのである。

 人間の体は常に浄化作用をしているからその粕が肩や首に寄るのが多いのである。これは罪穢の病源とは違うのである。肩が凝り、脳溢血を起し易いが先祖の罪穢よりは軽いのである。なお又毒が下へ降って行くものもある。脊椎や腰へ注射して足へ下りて来て踝(くるぶし)や関節へ固るのはこれで、これは仲々治らんものである。

 注射も絶対的のものでないから絶えず研究して作るから益々色々の病気が起る事になる。的確に治るものもあるが、大抵二三日位で起る。今度は前より一層悪くなって起って来るから反って悪いのだ。これは一時的に止めるのであるから注射は反って悪い。最も恐ろしいのは赤坊に注射をする事である。赤坊に注射をすると発育が止るから実に困るのである。人間は絶対に薬を入れてはならん。

 病気したならば直(ただち)に観音力で治療する事である。観音力は百パーセント癒るからである。

 黴菌は人間の血液浄化作用に神様が作ったのである。何も彼も必要だから神様が作られるのだ。黴菌や虫はあまり人から恐れられ怨まれて気の毒なものである。多く黴菌の為に人間が健康に導かれたり美味い酒や味噌醤油まで皆この恩恵に与っているのである。

 絶対健康法

 人間に曇りを無くすることが健康法の根本であります。これは光に浴することが一番で光にふれることである。朝夕観音様を拝む事は光にふれる事で、光に照されることである。魂に光を受けるから清まるのである。

 この光に大、中、小がある。本部が大であり、支部が中であり、自家の観音様が小なのである。

 それ故曇りが取れて病気が起らなくなるのである。観音会に病気が無いのはこれが為である。

 又徳を積む事である。徳を積めばその徳により光が増すのである。人を救う。善い事をすると感謝となって、光となってその人へ報い来るのであります。その為その人に威厳が増すから恭敬(うや)まわれるのである。魂の穢れた人は徳がないから光がない。始終ビクビクしているから卑しく見えるのだ。徳を積むには神様の事、社会の事、個人を救う事をどんどんやるのである。その人が仮に病気をしていて人を救うことが出来んというかも知れんが、病気中なれば病気をしながらも人を救う様に世話をするのである。神様の有難いことを話して神様を信ずる様にするなり、病人なれば神様へ御治療を受けに行く様にする事である。この様にすれば病人でもその徳により自分の病気が直ちに癒るのであるから余計に神様からお光をいたゞくのである。

 信者を一人作らしていたゞくのや導くのは大変な御用である。その人が他人を救う。又その救われた人が又救うという様に鼠算式に信者が殖えると大変なことになる。

 それが絶対の健康法なのである。体的本位の健康法は末である。神様の御用をすれば何を喰べても非常に健康なのである。滋養も衛生も末の末、夜の世界の最後のものである。滋養は神様の霊気が一番なのである。
             (昭和十年九月十五日)

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