我と執着 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

凡そ世の中の人を観る時、誰しも持ってゐる性格に我と執着心があるが、之は兄弟のようなものである。凡ゆる紛糾せる問題を観察する場合、容易に解決しないのは、此我と執着に因らぬものは殆んどない事を発見する。例えば政治家が地位に執着する為、最も好い時期に挂冠すべき処を、時を過して野垂死をするような事があるが、之も我と執着の為である。又実業家等が金銭に執着し、利益に執着する為、反って取引先の嫌忌を買い、取引の円滑を欠き、一時は利益の様でも、長い間には不利益となる事が往々ある。又男女関係に於ても、執着する方が嫌われるものであり、問題を起すのも、我執が強過ぎるからの事はよくある例である。其他我の為に人を苦しめ、自己も苦しむ事や、争いの原因等、誰しも既往を省みれば肯く筈である。

以上の意味に於て、信仰の主要目的は我と執着心を除る事である。私は此事を知ってから、出来るだけ我執を捨てるべく心掛けてをり、其結果として第一自分の心の苦しみが緩和され、何事も結果が良い。或教に「取越苦労と過越苦労をするな」という事があるが、良い言葉である。

そうして霊界に於る修業の最大目標は執着を除る事で、執着の除れるに従い地位が向上する事になってゐる。それに就て斯ういう事がある。霊界に於ては夫婦同棲する事は、普通は殆んどないのである。それは夫と妻との霊的地位が異ってゐるからで、夫婦同棲は天国か極楽人とならなければ許されない。然し乍ら或程度修業の出来た者は許されるが、それも一時の間である。その場合、その界の監督神に願って許されるのであるが、許されて夫婦相逢うや、懐しさの余り相擁するような事は決して許されない。些かの邪念を起すや、身体が硬直し、自由にならなくなる。その位執着がいけないのである。故に霊界の修業によって全く執着心が除去されるに従って地位は向上し、向上されるに従って夫婦の邂逅(カイコウ)も容易になるので、現界と如何に異うかが想像されるであろう。そうして曩に述べた如く、執着の権化は蛇霊となるのであるから怖るべきである。人霊は蛇霊となる際は、足部から漸次上方へ向って、相当の年月を経て蛇霊化するもので、私は以前首が人間で身体が蛇といふ患者を取扱った事があるが、之は半蛇霊となったのものである。

従而信仰を勧める上に於ても、執念深く説得する事は熱心のようではあるが、結果はよくない。之は信仰の押売となり、神仏を冒瀆する事となるからである。凡て信仰を勧める場合、ちょっと話して相手が乗気になるようなれば話を続けるもよいが、先方にその気のない場合は、話を続けるのを差控え、機の到るを待つべきである。

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