間違ひ信仰 (自観叢書九 昭和二十四年十二月三十日)

斯ういう面白い事があった。私が一番最初の弟子であった山室某なるものに、昭和六年麹町五丁目の或裏へ一軒の家を借り、治療所を開始さした事がある。そこへ近所の風呂屋の親父が脚が悪いので治療に来た処、非常によくなって今少しで治るという時、バッタリ来なくなった。近所の人が来ての話で、その訳が判ったというのは、その親父は真宗のカンカンの信者であったので、もし観音様ですっかり治るとすると、阿彌陀様の信仰をやめなければならない事になる。そうすると死んでから阿彌陀様の傍へ行けないから、すっかり治らない中にやめたというので、その話を聞いて私は唖然として苦笑したのであった。

之も右と似た話であるが、五十歳位の藁麦屋の親爺で、手首が痛くて曲らないので治療に来た事があった。一週間治療したが更に効果がないので、之は霊的だと思ったので、「貴方は何か信仰してゐるか。」と聞いたら、二十年来不動様の信者だというので、私は合点が行った。尚聞くと、「毎朝不動様へ自分がお盛物を上げる。」というので。「それをやめてみなさい。」と言った処、彼は「デハ明朝から家内にやらせる。」と言って、彼はその日からやめた処、直に治って了ったので、驚いて早速観音信仰へ転向したのである、処が彼曰く、「家の伜が慢性頭痛で困ってゐるが、治して貰いたい。」と言うので、彼の家へ行ってみると、天井に何本も釘が刺してあった。之は不動信仰者の家にはよくみるが、私はこれだなと思って、早速釘を抜かした処忽ち治って了った。

又斯ういう事もあった。或自動車屋の主人が、「私は不動様へお詣りに行くと、その後で必ず自動車がヱンコするが、どういう訳か。」と訊くので、私は、「それは当りまえだ。不動だから動かなくなるのだ。」と言って大笑いした事があった。

右の例にみても、何でも拝みさえすればいいという事は考えものである。というのは、その人の身魂の高下と因縁によって、拝む神仏も相応しなければ反って逆の結果になるからで、大いに慎しむべきである。

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