御教え集1号 昭和二十六年八月二十五日 *信仰 (昭和二十六年九月二十日)

【御 教 え】
(御論文「⇒医学進歩の窮極」のあとの御言葉)【注 栄光新聞一二一号】
これは二、三日前の外国映画のニユースですが、ボクシングをやっている所があった。処が黒人と西洋人とは比較にならない。片っ方は、まるで子供みたいです。白人の方は弱々しいが、黒人の方は隆々たる態度です。あれで気がついたんですがね。

(御論文「⇒信仰の自由」お蔭話「基督教徒なるが故に」のあとの御言葉)【注 栄
光新聞一二一号】
キリスト教信者の宗教的の色々な——喜びと苦悩をまぜこぜに書いてある。こう言う事は沢山ある事ですがね。私も昔そう言う人に随分会ったが、根本から言うと小乗信仰です。キリスト教でも——カトリック旧教でも、特に小乗なんですね。そこで、やはり終戦前の日本ですね。天皇陛下の為に命を捨てると言うのが最高道徳でしたが、今になってみると馬鹿々々しい事だと思う。そう言う風に教育されると、そうなっちゃう。大体、キリスト教信者と言うのがすでに小乗なんです。何教彼教と言うのがすでに小乗なんです。だから何教だとか——非難したり——つまりメシヤ教ならメシヤ教に捉われてはいけない。強いて言えば、世界教ですね。そこで世界救世教と言う。そうすれば何んな宗教でも構わない。だから対立的にはならない。今読んだのは対立的ですからね。これが小乗の弊害なんですね。ですから、私は日本人じゃいけないと言う。以前終戦時に、私があんまり終戦について言わないので「先生、あなたは日本人ですか」と言うから、「違う」と言うと、「へーえどう言う訳ですか」と言うから、「世界人だ」と言ってやった。「日本人だったから、あんな戦争を起した。世界人ならあんな事はしない。土地を取ったり、人を殺したりしない。日本人だったからあんな事をした」と言うと、ヘンに感心しました。そんな訳だからね。こう言う人があります。メシヤ教は他の宗教を非難しないからいい、と言う。上流階級の人が言ったんですが——その宗教はメシヤ教の一部なんです。それを非難するなんてね——自分のなんだから、自分の方を非難する事になる。そう言う頭でやらなくてはいけないですね。だから他の宗教でも何んでも結構、何んでも研究しなさいと言うのです。メシヤ教になって良かったら、それでいいですがね。処が、メシヤ教以上のものはないと言う自信があるからね。昔の事ですがね。深川で大きな風呂屋があった。そこの娘さんがリウマチで、手が——こうする(拝む)事ができない。そこの家は阿弥陀さんの熱心な信者さんで、私は「あなたの手の原因は阿弥陀さんを拝むのがいけない。昔は良かったが、今は違って来ているから、阿弥陀さんを拝むのは時節が違っているから、——手が——拝めないと言うのは先祖に止められているので、阿弥陀さんを拝まないで観音様を拝みなさい」と言うと、帰って「おっかさんとか親類と相談しましたが、どうも反対する人が多いので、その通りにする事はできない」と言うので、「そうしないで治すと言うのはできない。それが根本だから」と言って止した。先にかいた事があるが、やはり湯屋の親父で足が悪く、浄霊してやったが、いい加減治った時分に来なくなった。おかしいと思って近所なので聞いてみた。すると、あの親父さんはこう言う事を言っていましたよ「大分良くなったが、治されたら大変だ。阿弥陀さんのそばに行けない」と言う。それで止めたが、それから天理教の先生ですが——病気の人を私がやってやると少し良くなる。それから天理教の先生が来るとまた悪くなる。先生にお願いすると良くなると言う事は分かっていてもそれを明らかに言えない。もし治ると言う事になると、天理教の先生で治ったと言う事になる。それを聞いて、折角治しても天理教で治ったと言う事になるので、骨折損のくたびれ儲け、と言う事になるのでやめた。随分ひどい事を言う。罪穢れが沢山あるから懴悔(ざんげ)をせよと言う。懴悔をするとまだあるだろうと言うので、いくら考えてもないと言うのです。そう言う事を、相談ではないですが——愚痴を言った事がある。それで、つくづく懴悔信仰は良くないと思いました。キリスト教にはよくありますね。しかし、懴悔をすると言う事は全然悪い事ではないですが、しかし懴悔をしないで治すのがいいですね。懴悔は、どうも人に言えない事が多いですからね。要するに改心すればいいんです。自分の心を改めてそれで結構なんですから。それでメシヤ教には懴悔と言うのはないんです。まあ—なるべくきれいに良い人間になる方が良いんです。

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