大乗と小乗 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

昔から大乗小乗の言葉がある。勿論之は仏語であって、仏教に於ても相当悉(クワ)しく説かれてゐるが、どうも納得出来得るような説は、私の寡聞(カブン)の為か未だ聞いた事がない。之に就て私見をかいてみよう。

先づ一口に言えば小乗は経で、大乗は緯である。又小乗は感情であり、大乗は理性である。小乗は善悪を差別し、戒律的であるから一般からは善に見られ易いが、大乗は善悪無差別で、自由主義的であるから善に見られ難(ニク)いのである。之を判り易くする為二三の例を挙げてみよう。

 茲に一人の盗人がゐる。夫(ソレ)を改心させようとする場合小乗的行方でゆくと悪事を窘(タシナ)めるべく説得するのであるが、大乗に於ては、自分も一旦盗人の仲間へ入り、機を見て、「悪い事をすると大して儲かりもせず年中不安に脅えておって詰らないではないか」というように話し、悪を廃めさせ善道へ導くのである。又親に従う事を以て孝の基とされてゐるが、偶々自分は目的を立て、それを遂行せんとする場合、親の許を離れなければならないが、親は不賛成をいう。止むなく一旦親に叛いて家出をし、目的に向って努力し成功してから、親の許に帰れば親もその光栄に喜ぶは勿論で、大きな親孝行をした事になる。之を観察すれば、前者は小乗的孝行であり、後者は大乗的孝道である。又国家主義民族主義等も小乗的善であり、共産主義も階級愛的小乗善である。由来何々主義と名付くるものは大抵、小乗善であるから、必ず行詰る時が来る。どうしても大乗的世界的人類愛的で行かなくては、真理とはいえない。日本が侵略主義によって敗戦の憂目をみたのは、小乗的国家愛小乗的忠君であったからである。以前日本で流行した皇道という言葉は、小乗的愛国主義であった。何となれば、此皇道を日本以外の国へ宣伝しても、恐らく之に共鳴する者はないであろうからである。故に世界人類尽くが共鳴し謳歌するものでなくては、永遠の生命あるものとはいえない訳で、之が真の大乗道である。由来何々主義というものは、限定的のものであるから、他の何々主義と摩擦する事になって、闘争の原因となり、遂には戦争にまで進展し、人類の惨禍を与える事になるので、小乗の善は大乗の悪であり、大乗の善は小乗の悪という意味になるのである。然し茲に注意すべきは一般大衆に向って、初めから大乗道を説く事は誤られ易い危険があるから、初めは小乗を説き、相手が或程度の覚りを得てから大乗を説くべきである。

 次に私は宗教に於る大乗小乗を説いてみよう。元来仏教は小乗であり、キリスト教は大乗である。仏教は火であり、キリスト教は水である。火は経に燃え、水は緯に流れる。故に仏教は狭く深く、孤立的で緯の拡がりがない。反対にキリスト教は大乗であるから、水の流溢する如く世界の隅々までも教線が拡がるのである。面白い事には小乗である仏教の中にも大乗小乗の差別がある。即ち南無阿彌陀仏は大乗であり、陰であるが、南無妙法蓮華経は小乗であり、陽である。大乗は他力であり、小乗は自力である。彼の阿彌陀教信者が「南無阿彌陀仏と唱えさえすれば救われる」という他力本願に対し、小乗である法華経は「妙法蓮華経を称えるのみではいけない。宜しく難行苦行をすべきである。」といふ事になってゐる。斯様に経と緯と別々になってゐたのが今日迄の宗教であったが、最後は経緯を結ぶ、即ち十字型とならなければならない。此意味に於て時所位に応じ経ともなり、緯ともなるというように、千変万化、応現自在の活動こそ真理であって、此十字型の活動が観音行の本義である。昔から観世音菩薩は男に非ず女に非ず、男であり女であるという事や、聖観音が御本体で、千手、十一面、如意輪、准胝(ジュンテイ)、不空羂索、馬頭の六観音と化現し、それが分れて三十三相に化現し給うという事や、観自在菩薩、無尽意菩薩、施無畏菩薩、無碍光如来、光明如来、普光山王如来、最勝妙如来、其他数々の御名があり、特に応身彌勒と化現し給う事などを以てみても、その御性格はほぼ察知し得られるのである。因(チナ)みに阿彌陀如来は法身彌勒であり、釈迦如来は報身彌勒であり、観世音菩薩の応身彌勒の御三体を、三尊の彌陀と称へ奉るのである。又日の彌勒が観音であり、月の彌勒が阿彌陀であり、地の彌勒が釈迦であるともいえるのである。茲で注意すべきは、観世音菩薩の御本体は天照大御神の顕現という説があるが、これは誤りで天照大御神は大日如来と顕現し給うのである。

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