『文明の創造』宗教篇 「善悪発生とキリスト教」昭和27年

  此標題の意味を説くに当って、予(あらかじ)め知っておかねばならない事は、再三言っている如く、仏教の真髄は霊が主であり、キリスト教のそれは体が主である事である。とすれば今之を仮に善と悪とに別けてみると、霊は善に属し体は悪に属するといってもいいが、併し此場合の善悪は決定的のものではなく、只強(し)いて別けるとすればそうなるのである。換言すれば霊を主とすれば霊主体従となり、体を主とすれば体主霊従となるからである。今それらに就て順次解説してみるが、善と悪とに就て、徹底的解釈をするとなると、之は仲々難しい問題であって、今日迄此問題を真に説き得た者は、殆んどないといってもいい位である。何となれば此事は大宇宙の主宰者である主の神の権限に属するからで、即ち哲学的に言えば宇宙意志である。従って主の神以外の凡ゆる神でも分り得ないのは当然で、況んや人間に於てをやである。若(も)し此問題を説く人があるとすれば、それは人智から生れた想像の範囲内であって、それ以外一歩も出ないのである。処がそれを私は茲に解説しようとするのであるから仲々大変ではあるが、といって私の想像的所産ではなく、神示によるものであるから別段難くはないのである。というのは時期来って地上天国建設の大任を負わされた私としては、或程度主神の真意が感得されるからで、読者は此点よく心に止めて読んで貰いたいのである。

 そうして今茲に説明する処の理論は、私が常に説く処の大乗よりも、一層大乗ともいうべきもので、勿論前人未踏の説であって、文字や言葉での表現は寔(まこと)に困難である。従って兎も角現代人の頭脳で解し得る程度と共に、神から許されたる枠内だけの事を説くのである。

 抑々、主神の御目的なるものは、之も私が常に曰(い)う如く、真善美完(まった)き理想世界を造るにあるのであるから、其御目的に必要な程度にまで物質文化を進歩発逹させればいいのであって、それが今日迄の世界の歴史であると思えばいい。其意味を以て現在の文化形態を審(つぶ)さに検討する時、最早(もはや)時期の来ている事に気付くであろう。

 以上の如く、物質文化が此程度に迄進歩発達したに就ての、古代からの過程を凝視する時、其処(そこ)に何を見出すであろう。といっても人間の頭脳での発見は困難であるが、私は今それを解説しようと思うのである。それは世界の一切は神意による経綸である事を充分知らせたいからである。そこで先ず人類の最大苦悩である処の善と悪との摩擦即ち闘争であるが、此闘争なるものの原因は、言う迄もなく悪であるから愛の権化ともいうべき神は、何故悪を造られたかという事である。此事は昔から何人も知ろうとして知り得なかった謎であったが、それを今私は解こうとするのである。それに就ては先ず心を潜めて歴史とそうして文化の進歩の跡を顧(かえ)り視(み)る事である。としたら其処に何を発見するであろうか。処がそれは意外にも人類の闘争によって、如何(いか)に文化の進歩を促進したかという事である。若しも人類が最初から闘争を好まず、平和を愛していたとしたら、物質文化が仮令(たとえ)生れたとしても、其発逹は遅々たるもので、到底今日見るが如き目覚しい発逹は遂げ得られなかったに違いない。此事をよく考えてみたら、悪なるものが如何に必要であったかが分るであろう。

  処で茲に問題がある。それは此善悪の摩擦が文化の進歩に必要であったとしても、悪は無限に許されたものではない。いつかは停止される運命が来るに決っている事であって、今日其時が来たのである。何となれば現在の文化形態をみればよく肯(うなず)ける。即ち戦争手段としての驚くべき武器の進歩である。言う迄もなく彼の原子破壊の発見であって、此発見こそ人類の破局的運命を示唆しているもので。最早戦争不可能の時期の来た事の表われでなくて何であろう。之によってみても闘争の根本である悪なるものの終焉(しゅうえん)は、最早(もはや)寸前に迫っている事に気付かなければならない。勿論常に私の唱える昼夜の転換の如実の現われでもある。之を歴史的に見てもよく分る。若し悪を無制限に許されたとしたら、社会はどうなったであろう。人間は安心して業務に従事し、平和な生活を営む事は出来ないで、遂には魔の世界となって了(しま)い、一切は崩壊するに決まっている。としたら或時期迄の統制も調整も必要となるので、其役目として生れたものが宗教であり、その主役を荷った者が彼(か)のキリストである。同教の教義の根本が人類愛であるのもよくそれを物語っている。それによって兎も角白色民族の社会が、魔の世界とならずに、今日見る如き素晴しい発展を遂げたのも、全くキリスト的愛の賜でなくて何であろう。以上によってキリスト教発生の根本義が分ったであろう。

 そうして今一つ忘れてはならない事は、無神論と有神論である。之も実をいえば経綸上の深い意味のある事であって、それは若しも人類が最初から有神論のみであったとしたら、悪は発生せず闘争も起らないから、それに満足し立派な平和郷となり、よしんば唯物科学が生れたとしても、発展性はないから、到底地上天国の要素たる文化的準備は出来なかったに違いない。処が無神的思想が蔓(はびこ)った結果、形のみを主とする以上、今日見るが如き、絢爛(けんらん)たる物質文化が完成したのであるから、全く深遠微妙なる神の意図でなくて何であろう。然し表面だけしか見えない唯物主義者などは、それらの真意を汲みとる事は出来まいが、右の如く愈々悪の発生源である無神論は、最早有害無用の存在となったのである。としたら世の多くの無神論者よ、一日も早く覚醒されるべきで、若し相変らず今迄通りの謬論(びゅうろん)を棄て切れないとすれば、気の毒乍ら滅亡の運命は、君等を待ち構えているのである。何となれば善悪切替えの時機は決定的に接近しており、其場合神業の妨害者は絶対的力によって生存を拒否されるからである。そうして神は無神論者を救う手段として採られたのが、神の実在を認識させる事であって、其方法こそ本教浄霊である。見よ本教に救いを求めに来る数多の重難病患者等が忽(たちま)ち全快の恩恵に浴して、此世に神は確かに存在する事を知って、翻然(ほんぜん)と目覚め、今迄の無神論の誤りを悔ひ、忽(たちま)ちにして有神論に転向するのは、百人が百人皆そうである。何よりも此実例は、お蔭話として数え切れない程本教刊行の新聞雑誌に掲載されてあるにみて一点の疑いを差挿(さしはさ)み得ないであろう。

 以上の如く今日迄は、悪なるものも大いに必要であった事と、今日以後は二義的存在として、制約される事が分ったであろうが、之に就て別の例を挙げてみようと思う。それは原始時代に於ける彼のマンモスや恐竜の如き巨大動物である。それは今世界の各地に時折発見される骨であるが、之によってみても実在したものであったに違いない。其他にも大蜥蜴(とかげ)やそれに類した奇怪な動物が、旺(さか)んに横行していた事は想像に難からないが、今は影も見えないという事は、全く自然淘汰(とうた)による為であろう。其理由は不必要となったからであるのは言う迄もない。必要というのは何しろ地球が形成され、相当期間地殻が脆弱(ぜいじゃく)であったが為、それを踏み固めしむるべく多くの巨大動物を作り、其役に当らせたのであって、大方固 まったので淘汰された事と、自然硬化作用と相俟(あいま)って、漸く立派な土壌となったので、神は植物の種子を造り蒔いた処、漸次植物は地上に繁茂し、生物の生活条件が完備したので、茲に人間始め凡有(あらゆ)る生物を造られたのである。併(しか)し乍(なが)ら最初の内は至る処、猛獣毒蛇等々が棲息し人間を悩ました事であろう。そこで其時の原始人は、之等動物との戦闘こそ生活の大部分であったであろう。之等動物の幾種かは時々発見される骨や、其他部分品等によっても大体は想像がつくのである。勿論之等大部分の動物も自然淘汰されたものであろう。それらに就て想われる事は、日本に於てさえ彼の日本武(やまとたける)尊が、其毒気に中(あ)てられ生命を失ったという説にみても、それ程獰猛(どうもう)な奴が到る処に棲んでおり、人畜に被害を与えたに違いあるまい。処が其様な有害無益の生物も、時を経るに従い消滅又は減少しつつあるのである。従而(したがって)、最早今日では人畜に危険を及ぼすような動物も、種類によっては殆(ほと)んど死滅したものも尠(すくな)くないようである。此様な訳で遂には動物といえば、家畜動物のみとなろう事も想像されるのである。

 以上説いた如く、文化の進むに従って、必要であったものも不必要となり自然淘汰されるとしたら、最後に至って人間と雖(いえど)も自然の法則から免れる事は出来ないのは勿論である。としたら人間に対するそれは何かというと、勿論人間に内在する悪である。曩(さき)に述べた如く今後の時代は、悪は有害無益の存在となる以上、悪人は淘汰されて了うのは当然な帰結である。之を一言にしていえば、進化の道程として動物と同様の人類が進化し、半人半獣であった人間が、即ち外表は人間、内容は獣であった、其獣性を除去して全人間にするのが今や来たらんとする神意の発動であって、それに服従出来ない者が、自然淘汰によって滅亡の運命となるのである。

 以上の如く善悪の人間が清算され、善の人間が大多数となった世界こそ、本教で謂(い)う処の地上天国の実相である。右によっても分る如く、滅亡の一歩手前に迄来ている悪人を悔改めしめ、犠牲者を少なくする其救いこそ、神の大愛である事を知らせるのが本教の大神命である。

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