善悪

第十二篇「自観説話集」

善人よ強くなれ (自観叢書第十二篇 自観説話集 昭和25年1月30日)

まず善人が団結し連盟を作るのである。名称は悪徳排除連盟とでも言ったらよかろう。こういう案を私は提唱するのだが、之こそ社会改善に対する最も有効手段と思うからである。
御教え集4号

御教え *布教/善と悪(御教え集4号 昭和26年11月5日④)

善と悪について書いたんですがね。これは最も根本的問題です。それを書いてあるんです。つまり悪は必要だと言う事ですね。悪は大変な大きな功績をしていると言う事です
御垂示録3号

*三千世界の大芝居 御垂示録3号昭和26年10月5日⑨

神様は深いんだから、人間の目で良いとか悪いとか分かる様では――そんな神様ではね。何んな悪い奴でも、何んな馬鹿な奴でもその時は必要があって使われるんです。たいてい、時が経つと分かります。
天国の福音

善と悪 (天国の福音 昭和二十二年二月五日)

人間が神にもなり得れば悪魔にもなり得るという自由である。そこで私は霊界研究から得た神と悪魔なるものについての見解を述べてみよう
教えの光

観音力・観音行・観音心 、善人悪人の別 『教えの光』(4、浄霊および信仰上の問題)昭和二十六年五月二十日

観音心とは観音の大慈大悲の御心であり、その御心を心として体現することが観音行である。特に観音神業においては絶対に人を咎めてはならぬ。この人を尤めるのが一番いけないのである。
教えの光

悪と苦の存在 『教えの光』(1.宗教、科学、哲学、芸術の問題 )昭和二十六年五月二十日

邪念や言葉の罪などは、朝夕神仏を礼拝することによって大方は浄められるが、それのみでは本当でない。やはり人を幸福にすることが肝要で、信仰は拝むのみでは本当に救われぬ。まず多くの人に喜びを与えなくてはならぬ。 
地上天国

「叡智の光」(1) 地上天国17号 昭和二十五年十月十五日

  それは、事情によるのである。どっちにも決める事は出来ない。その的確の判断が、叡智の力である。叡智とは、或程度信仰が進み誠の心の持ち主になれば、自から判断がつくものである。
メシヤ講座

[メシヤ講座]信仰をする意味 2014年9月②(私達の学び目からウロコの内容より

「人間とは一体何か?」そういうものが分かってくると、こういうふうに、善悪を最終的に決定づけるまでしてはいけないということが分かってきます。
大経綸

新旧文化の交代 (栄光六十八号 昭和二十五年九月六日)

原子の破壊から絶対免れんとすれば前述の如く悪を善に転化する事である、この力こそメシヤの力でなくて何であらう、唯然し、善悪の大転換が行はれるとしても善化しない悪人も多数あるに違ひないから、此様な見込みのない者は清算されるより致し方ないであらう
信仰雑話

善と悪 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

世の中は善悪入り乱れ、種々の様相を表わしてゐる。即ち悲劇も喜劇も、不幸も幸福も、戦争も、平和も、其の動機は善か悪かである。一体どうして善人もあれば悪人もあるのであろうか
対談

明主様と読売新聞社科学部次長 為郷恒淳氏との御対談 現代人の悩みは何 (栄光百七十九号 昭和二十七年十月二十二日)

宗教には余り興味がありませんよ。宗教家が斯んな事を言うのは可笑しいが、と言って科学でも仕様がないのです。特に現代の青年層などが学校で科学を習って社会に出ると結局科学では駄目だという事が分って、矢張り理屈通りに行きませんので、もっと深い大きな何かを欲しいと言う希望は必ず起るのです。では宗教をと言った処でどうも今迄の宗教と言うものは、あまりに現実離れがして、行る気になれないという感じが……非常に多いと思います
地上天国

大乗たれ (地上天国 三十号 昭和二十六年十一月二十五日)

私はいつもいう通り、大乗の悪は小乗の善であり、小乗の悪は大乗の善であるという事であるが、此肝腎な点をどうも忘れ勝ちな信者があるが、之は大いに反省して貰わなければならないのである。判り易く言えば、何事も大局的見地から観察するのが大乗的観方である
信仰

之も慢心 (栄光 百二十一号 昭和二十六年九月十二日)

其證拠には今迄間違った信仰の為に、神様から裁かれ、人によっては命迄失った事実は沢山あり、古い信者は幾度も経験しているであろう、だから人の善悪を批判する前に、先ず自分の腹の中の善悪を見る事である。
信仰雑話

善を楽しむ (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

私は熟(ツク)づく世の中を観ると、多くの人間の楽しみとしてゐる処のものは善か悪かに分けてみると、情ない哉、どうも悪の楽しみの方がずっと多いようである。否楽しみは悪でなくてはならないように思ってゐる人も少なくないらしい。
観音講座

『観音講座』第五講座  善悪の真諦と光明世界の建設

霊界において現界に相応するのは八衢(やちまた)である。天国、地獄の中間に位する所なのである。現在の世間はこの八衢であるのがよく現われている。天国は上に行く程綺麗になり立派になって行く。
出版別御教え

悪の追放 (栄光百七十三号 昭和二十七年九月十日)

何故なれば薬は全部毒であるからで、毒を服んで身体が健康 になるなどは、石が流れて木の葉が沈むである。つまり薬という毒で、一時病気を圧 え苦痛を緩和させるだけの事で、其結果薬毒が病気を作り、年中鼬鼠(イタチ)ゴッコを し乍ら、人間は段々弱まって了うのである。
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御教え集13号 昭和二十七年八月二十六日 ※九分九厘と一厘

丁度医学に世界中塗りつぶされた様なものですが、そこに私が段々九分九厘の医学をやっつけて行くのです。で、九分九厘と一厘という事で一番の問題は医学なのです。之さえ本当になれば、無論貧乏も無くなりますから、戦争なんかも無くなるのです。医学と言つても、問題は薬なのです。人間の身体から薬を抜けば全然病気をしなくなるから、貧乏もなくなるし、争いを嫌いになるから戦争も無くなる、
栄光

九分九厘と一厘 (栄光 百三十八号 昭和二十七年一月九日)

戦争の原因は人間に内在する悪そのものであって、此悪なるものの本質は何であるかというと、曩にもかいた如く動物霊の意欲の表われであって、其行為が動物的であるに見ても明かである
文明の創造

『文明の創造』宗教篇 「善悪発生とキリスト教」昭和27年

文化の進むに従って、必要であったものも不必要となり自然淘汰されるとしたら、最後に至って人間と雖(いえど)も自然の法則から免れる事は出来ないのは勿論である。としたら人間に対するそれは何かというと、勿論人間に内在する悪である。曩(さき)に述べた如く今後の時代は、悪は有害無益の存在となる以上、悪人は淘汰されて了うのは当然な帰結である
文明の創造

『文明の創造』総篇  悪と守護霊(文明の創造  昭和二十七年)

前項の如く、現在迄必要であった悪が、不必要になったとしても、そう容易(たやす)く追放される訳にはゆかないが、それに就(つい)ての神の経綸は寔(まこと)に幽玄微妙なるものがある。之は追々説いてゆくが、茲(ここ)で前以て知らねばならない事は、抑々(そもそも)宇宙の構成である。