岡田茂吉 『観音講座』第五講座  善悪の真諦と光明世界の建設 | 岡田茂吉を学ぶ

『観音講座』第五講座  善悪の真諦と光明世界の建設

霊界について

 霊界において現界に相応するのは八衢(やちまた)である。天国、地獄の中間に位する所なのである。現在の世間はこの八衢であるのがよく現われている。天国は上に行く程綺麗になり立派になって行く。

 第三天国の建物は色々の材料を混ぜて使っている。第二天国の建物は石造りになっている。第一天国は皆木で造られている。檜のお宮は第一天国に相当するのである。天理教等は第二天国である。最奥天国は金銀又は宝石を使用して至極壮麗なもので、大体黄金を主にしているのである。

 又最奥天国の天人はほとんど裸体である。よく絵等に天人が肌を出して帯のごとき薄物をひらひらと掛けているが、これは空中を飛翔する時使用する物である。又最奥天国に行く程花が多いのである。

 人が死ぬ時天人が迎えに来るというのは事実であって、信仰の厚いばかりでなく、多くは娘で処女で、亡くなった時の状態を見ることが多いのである。この時は天人が紫雲に乗って音楽を奏しつゝ降って来て死んで行く霊も喜んで迎えられ、雲に乗って昇天して行くのである。

 私の肉体は狐や狸の霊が見ると強い光で何だか解らん。これは東京の震災前の事であるが、私が天国で衣冠束帯で階梯(きざはし)を昇って御簾(おみす)の中へ入って行くのを見たと鎮魂された霊が話した。ちょうど天神様の様な冠で青い衣服に裾から赤い衣服が見えたという。それは鎮魂する時その神様が来られて鎮魂なされて天国へお帰りになられたので、そのお帰りの状態を見せていたゞいたのであります。神様がお登りになったところが、その神様のお室となるのであります。神様と人間との想念によりて天国になるのである。悪の想念なれば地獄となるのである。霊界は想念の世界であるから、相応の理により想念通りになるのである。この会場でもいろいろの霊が来ています。それは自分達の祖先や友達の霊が来ているのであります。何とかして聞きたいものだという想念によりその人の生霊が来て居ります。その霊が聞いているからその人も幾らかは何かの時に解ることがあるのは霊が聞いているからである。

 この様にこの会場には何千人いるか解らぬ程いるのであります。霊は伸縮自在で針の穴の様なところでも潜り行くことが出来ます。霊はどんな戸締りのあるところでも出入りが自由に出来ます。鎮魂の時に狐の霊などが出入が自由に出来ます。鎮魂の時に狐の霊が出て行くから戸を開けてくれ等といゝますが、これはインチキでありまして、戸締り等開けずとも出て行かれるのであります。

 又下級の霊程小さいものである。霊でも救われた霊は人とほとんど同じ大きさなのである。八衢の霊も人間と同様位で、神格を得るに従って大きくなります。観音様の御姿はお座りになって鴨居位まであって、私はこのお姿を見て書いたのが元本部の御神体になって居りました日の出観音様なのであります。ほとんど裸で光明が非常に強くきらきらとしています。これは観音様の御姿の書き初めであったのですが、この為見当がつき書くのに非常に参考になったのであります。

 ある小母さんを鎮魂の時聞かされたのであるが、「この方は古い神である。名を言うことは出来んが彼の病人に魔が付いているから、その方に魔を払う事を教えに来たのである。艮(うしとら)の方へ塩を撒き、祝詞をあげる様に毎朝やれば癒る」との事でお引取りになられたのである。その小母さんが「随分喫驚しました。先生が鎮魂の時祝詞をあげられたら、急に大きな神様が木の葉の衣服を着て青、赤、紫でピカピカして綺麗で、頭の毛は後方に下げられて鉢巻をして居られた。座っていて鴨居位の大きさの神様であった」と。その通りにすると癒(なお)ったのであります。この神様のお姿をその後大本教の出口王仁三郎先生に聞いたら、国常立尊の戦を遊ばされた時のお姿であると申されました。その後先の小母さんは何んとなく私の宅に来にくゝって来る事が嫌で堪えられないのを無理に来られましたところ、鎮魂の際神様が出られて自分より他の霊の様な黒い物を殴打って出してくれた。これは小母さんが悪魔に憑かれて来る事が嫌になって来られなかったのを無理に来た為、神様が鞭で打ち追い出して下さったのであります。神様のところへ来るのが嫌になったのは悪魔につかれて居るから悪魔が来させん様にしているのであって、信者やその他の人でも神様の所へ来るのが嫌になるのは、皆この意味なのであります。この様な時、何でも彼でも来れば悪魔は離れて終うのであります。この類(たぐい)の霊は神様が怖くて、又光が怖ろしくて来られんのであります。

 上級の霊は下へ降る事は出来るが、下級の霊は上へ行く事は出来ません。これは宮中へ下民が行くことが出来んが、天皇陛下はどこでもお出になることが出来る。人民と接触遊ばされる事が出来るのと同様である。

 前に変死等したところではその後よくそこで死ぬ事が多い。これは変死した霊はここに喰い付いて終うのであって、これを地縛の霊といって畳やレール等に喰い付いて離れることが出来ず、淋しい為自分は動く事が出来ぬ為、通行人やボンヤリしている人を引張り込むのである。この為同じところで事故を引起すのである。変死人のあった家は皆この通りで、死んだ直後程霊が濃いのであって、死にたての霊の濃い為に幽霊が見えるのである。上級の霊程霊細胞が細いのである。又稀薄である。最上級の霊は稀薄であって光が出るのである。

 癲癇(てんかん)は死霊が憑くのでありまして、死んだ時の有様をそのまま見せて居ります。脳溢血で死んだ人のひっくり返る有様が癲癇に見る事が出来る。水死人ならば泡を吹き、水癲癇なれば水に落ちて死んだ人であり、火癲癇は火で焼死んだ人の霊が憑いているのである。

 爆弾三勇士の霊は粉々となり、本人の意識が無くなり細くなってしまっているが、その中四、五日経過する内に段々と寄り集り、形が出来て来て立派に一人前になれば、この霊は国家の為に死んだのでありますから、天国へ行けるのであります。生きている時に天国や霊界を信じない人が死ぬと蘆花(ろか、徳富蘆花)の霊などのように、言葉が幼稚園の子供位より出来ないのである。これは神仏を信ぜず霊界を知らぬ為死後の用意がないから中ぶらりんとなってしまう。無信仰の学者等は実に実に悲惨である。信仰のない人間は浮浪人となる。それが八衢で説教を聞いて各々自分の好きな団体へ行くのである。

 ヨーロッパでは学者が霊の研究をしているが、日本では反対に否定したり、反対したりする。英国には神霊大学が五六個ある。ワード博士の霊界旅行は一週間一回位霊界へ呼ばれる。この間一、二時間無我の状態になり、二時間位で非常に沢山な霊界を探険することが出来るのである。今から十年位前死んだ人でロンドンタイムス社長が出る。霊の研究をする時ラッパを使用するのであるが、そのラッパが空中に上り、そのラッパから声が出て「私はロンドンタイムス社長だが主筆を呼べ」というから呼ぶと、主筆に向って色々と社の為によく色々の経営方針を教えたということであります。

 神霊研究会の浅野和三郎氏のところで、霊媒亀井三郎氏により試験を行った事がある。まず手や足は動けぬ様に椅子へ絡げ付けて置いて、霊の活動状態の試験を行って見た。まず机上に夜光薬を塗った玩具を置き、電気を消して蓄音機を掛けて音楽を始める。暫くすると音楽により無念無想の状態に早くなるのである。レコード一枚位でポツポツ霊の活動が始まるのであって、玩具はツーッと角度のあるままも空中をよく飛行するのが夜光液の光でよく見える。ラッパがツーツーと空中を飛びながらパッパッパーと鳴る、鳴りつゝ走る。走っているかと思うと、パッとラッパや玩具を途中から落す。そのラッパや玩具を投げるにも人に当らない様に投げる。その内にテーブルが上にあがったりする。霊媒が椅子に縛られながら、着ている衣服の下に着ているシャツが、衣服はそのままシャツのみが脱がれて投げ出されてある。実に奇態な事である。しかも霊媒たる本人は無我夢中になり居り、一寸直ぐには醒めない程に眠りこけている有様である。この霊媒の醒めたのは十五分か二十分位かゝった。この霊媒に憑った霊は印度のバラモンの僧の霊が出て来て行ったのであって、この後で沢山の酒を飲まさんと明日は出来なくなるので、今夜、夜明位まで酒を飲ませねばならん、と言っていたのであるが、この霊がやるのであるから、明るくては出て来ないのである。

善悪の真諦

 善悪の真諦が解れば大学者に成れるのであって、非常に難しいのである。善悪は対照的なものである。悪があるから善がある、善があるから悪があるので、それがなくなれば何が残るかと言うと真となるのである。

 この真とは、要するに善なのであるが、又一方より解する時は善でも悪でもなく、又善にも悪にもなるのである。図のごきものである。世の中で善悪一如というが、一如では一の如(ごと)しと言うのであるから間違いである。


 善悪一致、善悪合一なのである。これが結合したといってもよい。この善悪(経緯)が結合したものゝ中心が真であるから、善でも悪でもなく、光明世界でいかにするかと言えば、我光明世界の人間は真を行うのである。その行は善でも悪でもない真である。それだからやることが総て和やかで、又非常に滑かに出来て行くのである。それ故、悪では万事甘(うま)く行かぬ為悪はなくなるのである。人が当然の事を行うのであるから、善ではなく当り前の事なのだ。今は半獣世界であるのを今度初めて人間となるのである。

 神様が善と悪とを造り、両方対立させて物質世界の進歩を見たのである。その救いは何かというと、完全なるものを造ることにおいて、意志の違った二つのものを出して競争させたのである。

 かりに今までの世を砂糖と塩にたとえて見ると、塩ばかりでは辛いばかりで真の味はない。又一方砂糖ばかりでは甘いばかりで、これ又真の味がないのである。

 人間は小善人と小悪人とである。全世界も一国すらも、人間の力で如何(いかん)ともする事が出来んのである。善としては何程の事も人間の力ではなす事は出来んのである。神様が万能の神様であるなら、なぜ悪を造ったか、そんな悪等初めから造らねばよいではないか、最初から善の世界にすればよいという人が非常に沢山あるが、造られたものと造り主とである。

 神 ―大善  造られた者、即ち人間位の智慧で、神様の御意志が解るものではない。
 悪魔―大悪  米と水とても炊いて混ぜ合せて初めて美味しくなり、水はどこへ行ったか解らんが美味しい御飯が残っている。炊けば水は消えている。

 善と悪との一段上に真があるのである。善悪も時所位によりて違うのである。人を殺すにもただ殺せば悪であるが、戦争で殺せば沢山殺す程善である。仇討も善である。即ち君国の為、親の為であるからである。しかし、昔の善は今の悪である。彰義隊の連中から見れば薩長は悪に見えるごときもので、色々の革命も時所位によって違う。

 明治維新の革命は善である。政治も民政党から見れば政友会は悪に見える。徹底するとどこまでが善で、どこまでが悪か解らんのである。まず世の中で人殺しは一番悪であるが、三宅雪嶺氏は又変った説を立てゝいる。即ち「人殺しが無くて法律だけではどんな悪い事をする様な世の中になるか解らん。なぜならば合法的にやればどんな悪事でもする様になるのである。それをこれ以上やれば殺されてしまうと思えば必ず止めて終うのである」と言うのである。これで見る時は一面の真理がある。悪事をやれば人に怨まれるし、又自分も悔む様な事になるから損である。善を行った方が嬉しいから永遠に栄えるのである。今までの世界では悪の方が多かったのである。それはなぜなるかというに、善悪に対する賞罰が今までは遅かったからである。悪を働いても解らずに、出世したり、立派になったり、金儲けしていても人に知れなかったのである。


 又一方善い事をしても善の効果が解らなかった為に、つまらん事になってしまったのである。泥棒してもすぐ捕らない故に泥棒するものもあるのである。ところが、今後はそれが反対になり、賞罰が早くなるから自然悪事は出来ん事になるのである。今後は直ぐ捕る様になるから、悪い事をするものがなくなるのは当然である。それなれば、今までなぜ直ちに知れなかったかと言うと、それは今までは夜の世界であったからである。いかに月夜でも家の中では暗くて解らんので、悪い事が出来たが今後は昼の世界となる為、悪事は直ちに解ってしまう。即賞即罰の世界であるからで間違った事は早く知れる。直ちに解るのである。思う様にいかんのは何か間違った事があるからである。これからは悪い事をするのが馬鹿々々しくなるからである。

 釈迦の説いた事は善で、阿弥陀の説いた事は悪である。観音の説いたことは真である。

      ◎   釈 迦……善……小乗
  観音――真
          阿弥陀……悪……大乗

 釈迦の本流を伝えた宗教は日蓮宗である。この教は了見が小さい。総て排他的である。自分の言うた事は善で、他は悪であるという寸法である。日蓮が布教の初めから、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊などと百方攻撃したことでも了解出来るのである。日蓮宗の一層やかましいのは仏立講である。善でも行き詰る。又悪でも行詰る事は明かである。親鸞上人の言った「善人は救われる況(いわん)や悪人をや」と言うのは実に悪である。この言を以ってすれば、善人より悪人の方が救われる可能性が強い事になる。これは仮相である。空である。何となれば善も悪もなくなるからである。

 実相が即ち真である。実相真如と言う仏語があるが、真如というのでは本当ではない虚である、虚々実々という言葉もある。

  実相=真=日  真如=仮=月

 善が悪であり、悪が善だと言うのだ。法律は悪人を保護するものである。世界より病気を無くする我々を責め、人を公然殺す医者を保護し、又助けるのである。これこそ法律の悪の最悪の見本である。国防の為の軍備は善であるが、イタリアがエチオピアを攻めるために軍備をしているこれは悪である。新聞も三面記事を出すから悪が余計多くなるのだ。この三面記事を見るから人の真似をするのである。要するに今までは仮の娑婆である。善悪両道を出したのは人間の智慧を出させる為で、善悪闘争をなさしめたのである。競争がなければ智慧は出ない。同じ稲でも昔は実が少なかったが、今は非常に多くなり、一穂に三百粒も五百粒もつくようになった。今にもっと沢山実る様になる。世の中が進歩して行くからまだまだ果物は大きくなり、沢山実る様になるのである。

 人間の智慧は大光明世界になるまでにはまだまだ発達する。煙草は一層脳を良くする為に喫ませる様になったのである。智慧も二千年前よりも非常に進歩しています。二千年前の人を銀座へ出せば一日で死ぬかも知れんのである。悪をこの世に残したのも智慧を発達させる為にしたのである。

 国を守る為に軍備などした為に各国互に競争することになり、この為ヨーロッパ等も発達したので、隣国より侵略されぬ様に骨折ったのである。いよいよ今まで進歩したのであるから、この位で悪を止めて完成へ取掛るのである。観音会の建ったのはこの完成の御用である。

光明世界の建設(弥勒の世)

  真の世界
 真の世界の実現は今までは理想としてはいたのであるが、その完成は出来得べくもなく、又時が至らなかったのであるが、観音会がいよいよ立ってこれを実現するのである。

  大体の目的
 この大光明世界建設の目的は彼岸を知らせる事である。今までの仕事や運動はステーションなしの向う見ずに進んでいたので、いつ目的彼岸に到着するやも知らずに乗っていたと同じである。本当のものが出来なかった為である。

  弥勒の世の政治
 弥勒の世の政治はどうかと言うと、政治とは社会の構成なのである。社会は三段に分類される。

     

 この様に三段となり、その又一段が三段になり、九段となり、天皇によって統治される事となるのである。この九段の階級に、今一段天皇の御位置を加えて十段となるのである。十は足りる完成になるのである。昔の殿様時代の城下町はこの点によく似ている。議会は弥勒の世にもあるが、やはり三段となる。

 上院 上流各種代表者一人ずつ出る。
 中院 中流 〃
 下院 下流 〃

 代議士はこの階級の職業から組合の組合長的人物(その級において職業の代表者の事に当る)が代議士となる。人数も組合の人口により代議士の数がきまるのである。組合の代表者、学校の教授もその階級毎に各代表者一人というごとく、新聞記者何人から一人という様なものである。

 今日の代議士には弁護士が一番多い。実際的専門知識のある者がいない為、何か変った問題に出合うと、専門家に聞いたり視察に出かけたりしてやっている。百姓や商人の代表者に弁護士が出てくるから、この様な矛盾を生ずる問題が起ると、各種の専門家に聞き党首脳部に聞き、それを幹部に報告するという様な有様である。これでは一部的であるから駄目である。これが専門家から出る代議士ならば、各々皆内容が判っているから非常に宜しいのである。総理大臣は一番肝心であるが、現在の日本は元老が日本の代理として選んでいる。立憲政体にはこの様なことはないのであるが、伝統的なものである。現在は西園寺公がこの御役であるが、この西園寺公がこの人が良いと言えば良いのである。

 弥勒の世となると、神人という神の代理を行う人で、元老の代りに神人が選定して天皇陛下の勅許を仰ぐのである。これならば神に通ずる為に一点の誤りもないのである。今日日本の総理大臣の平均勤務年限は二ケ年位で、米国大統領は四年位なれども、今度弥勒の世には定まっていないのである。換える時には神様から御命じになるのである。軍備、警察、裁判所、病院、花柳界等は無くなる。地獄的なものは皆無くなるのである。

 発達するものは交通で、東京からアルプスの山までも汽車が通ずる様になり、もっと動揺のない立派な汽車となる。芸術、大建築等も盛んに起る。建築は地震がない為非常な大建築が出来る。教育も発達する。教育は大学、中学、小学三段となり、三年宛(ずつ)を以て終了して上級へ進むのである。英、独語等外国語を習う必要がなくなる為、三年宛で良いのである。小学校も十二歳から入る様になるのだ。現在のように七八歳で学校へあがると子供の発育が止るのである。

 幼年労働者の体躯が発達しないのを見ても、又柔道を子供の時からやっている子供の背丈が延びないのを見ても良く解る。脳力も早くからやらせると智慧が発達しなくなって来る。

 人間は霊感が発達しなければいけないが、今の人は霊感がない。これは早くから教育された為で、霊感のある人は学問のない人に多いので良く解る。今の上層の人が霊感がない為、何か事が起って来てから対策をするのであるが、これは霊感を持たん為なので誠に情けないものである。

 九ケ年にして大学を終るのであるが、これで充分なのであって、日本では外国語は習わんでもよいのである。日本語が世界共通語になるからである。九ケ年で今の大学の先生よりずっと偉くなる。

 経済も非常に変る。産業組織も変るのである。近来統制経済という事をいわれるが、これは観音運動の準備なのである。各産業が合同されるのである。事業は事業で、皆同一種類は合同して一つになるのである。経営方法は下記の三段に分類される。

 この様に三分され、利益もまた同様三分されるのである。

 資本主義も社会主義も官営も入っている。今日行われている社会機構は全部入っている。これより外に良法はないと思う。これで行けば現在苦しんでいる様な納税不払等の心配もなく、税金は全然不用である。利益の三分の一とれるからである。資本家には又義務がある。資本家はこの利益は使い切れんからこの余裕ある金で事業なれば自己的思想が無くなるから、愛と慈悲が出て自発的に金を出して社会公共事業に尽力するのである。

 貨幣は全部紙幣となる。なぜなればこの時代は金が出過ぎる程出る為で、金銀は装飾に使用するものとなる。

 資本家が色々の社会施設やら人々の慰安の為に、幾多の公会堂、演芸場等が出来る。公演劇場を造り、労働者に慰安の為ただ見せ、月一回位は施行させる。住みよい家を造って労働者に住わせる等と、非常に資本家は公共の為に尽すのだ。

 労働時間も三時間ないし五時間働けばよいのである。今の八時間労働の半分は軍備に使用されているのであるのを見ても、軍備を必要としない光明世界にては今まで程働くことはいらぬ。八時間働いた時より反って労働者までが豊かになるのである。現在の社会では人間は喰う為に働くだけであるから、これは決して神様の御意志ではないのである。  (昭和十年八月二十五日)

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