[日々雑感] 今の世で、目が離せないのはメシヤ様の霊的なお話・・?

 こんにちは、今回、地上天国祭の頃ホームページに岡田茂吉教祖が神定めの御浄化に入られる直前の御講話を御教え集33号(29年5月15日発行)より掲載させていただきましたが、お読み頂けましたでしょうか?
 メシヤ様は御浄化に入られる直前まで、最後の関西御巡教(昭和29年4月10日〜4月14日)、もどられてすぐ次の日の15、16、17日と信者さんとのご面会日とお忙しくお元気にお過ごしでいらっしゃったようです。

 その頃の御講話の内容は意外にも半分は霊的な内容であり、半分は水素爆弾など将来の事や、海外の雑誌の取材についてお話しされています。御浄化に入られるギリギリまで、霊的なお話に半分ぐらいの時間を割かれていたことが私には意外でした。何故なら、私は長い信仰生活の中で、霊的なことはあまり学んできていないのです。霊的な事にあまり興味を持たない方が良いと言うことが、教団のメシヤ様がお亡くなりになられた以降の共通な認識だったのではと思います。しかし、メシヤ様は霊界の事を「あるものをないとも言えない」。また、『「信仰雑話」は・・(中略)・・小学読本で、次は「霊界叢談」で、現界と霊界との関係や神仏の存在等に就てゞ中学読本に当り、次の「神秘の扉」は大学程度です』。と御光話録にあり、霊界についての学びは欠くことのできない大変重要なことなのだと思われます。今頃そんな事を言っているのかと呆れる方もいらっしゃると思いますが、霊的なことにはあまり興味を持ってはいけないように長年思い込んできた私としては、ホームページに御教えを掲載させていただく程に霊的な考え方の重要性を強く感じ、メシヤ様がここがわからないと神様の役にはたてんよ!と、おっしゃっているように思われます。今までも茨木よし子さんの霊視日記など掲載させて頂いていますが、地上天国誌や教団の刊行物にもご晩年ずっと掲載されている、多田先生の神界通信なども、引き続きHPで掲載していきたいと考えています。

 晩年、霊界に関することをどんどんお話されていたメシヤ様はオカルト的に思われるどころか、各界の要人からインタビューを申し込まれ、社会的に立場のある方々との対談も多く残されています。対談も追々掲載していきたいと思っていますが、メシヤ様がお亡くなりになられ、世の中が科学至上主義時代となって行ったために、オカルト宗教的に思われることを避けたかったのか、霊的な学びが世界救世教から、ごっそり抜け落ちていたように思います。しかし、御在生中は霊的なことをバンバン話されながら、世の中から注目を浴びていらっしゃったのだから、メシヤ様亡き後の、社会に迎合する教団のあり方は、メシヤ様の想いに相反するように思われて残念です。
 しかしそれも、メシヤ様だからお出来になる事だったのかもしれませんが・・・。
 4月12日、室生寺から奈良ホテルにお戻りになられ、会食の席上でのメシヤ様のお話を掲載させて戴きます。

 「きょうは、私は一日中うれしくてたまらない。この喜びは誰にもわからないだろう。きょう雨が降ったのは、あれは龍神が行なったのです。龍神というのは神様ですが、やはり罪のために龍神になったのです。それで五六七の御代の建設のため、神様のお手伝いをしたいのですが、龍神でいてはそれができない。それには、元の神格に返らなくてはならない。そうなるには光です。光に浴するしかないのです。それできょう、私がここに来るのがわかったので、お光に浴するわけです。それは何万という龍神です。その感謝を雨で表わしたのです。私の車の前を雨が降って行くのです。その龍神の感謝の気持ちが私に来るので、涙が出るほど嬉しいのです。」

東方の光 下巻 632ページより

 霊界はこの頃すでに昼の世界に入っていて、龍神も良くわかったのでしょうね。何万という数とは凄い!

 さて、一番肝心の現界にいるのが私はもとより人間です。長い間、目に見えるものを中心に観て生きてきて、昼の世の到来を、お光を、霊界からのメッセージをどこまで気づくことができるでしょうか? どれだけの人間が感得する事ができるでしょう・・・?
 人類のどれだけの人の心の岩戸、魂が啓くかが、地上天国建設の鍵ですよね。頭ではそういうように考えれるのですが・・。

                 八尾屋

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