観音講座 第二講座 「宗教の根源と救世主の出現」(昭和十年七月十五日)

宗教の根源と救世主の出現

  地上の御経綸については、初め国常立尊が善一方の世界を出現させるべく御経綸遊ばされたが、余り厳格なりし為諸々の神様が非常に煙たがり反対された為にこれは失敗し、いよいよ善悪二通りで進む事と今後なるのである。二千六百年以前神武天皇に御神勅ありて日本統治をなされた。
 素盞嗚(すさのを)尊は西洋にてイスラエル民族を造られたのである。それがユダヤ民族であって、学問を以て世を開発することをお始めになられたのである。

 一方伊都能売(いづのめ)大神様を印度にお降しになり、布咀落迦(ふだらか)山にて南海大士観世音菩薩として仏教をお始めになり、この山にて仏教を釈迦に伝えられたのである。その時の釈迦の名は善財童子と申されたのであるが、未だ若かりし時既に教を受けて居られたのである。皆これは主神様が準備をなされたのである。

 今日本においては神道、仏教、基督(キリスト)教とあるが、神道は一寸宗教とは言難いのである。その中で天理教及金光教が宗教の形態をなし、公認教ではないが大本教も相当発展している、神道中での宗教であると言う事が出来る。金光教は余り教理としても完全なものはないが大本、天理の二教は相当に形態をなしている。キリスト教信者は日本で十万と言うが今は十万とはない。

 華厳経に布咀落迦山に観世音菩薩あり、善財童子等大慈大悲教を説かれるのを聞いて居られたが、その中に既に沢山の弟子が居られ、中にも侍者として二十八部衆在り、大弁財天、大梵天王、帝釈天王、金色孔雀、毘舎門天、阿修羅王等の外、ナーラヤナ金剛、ワーデラバーニ金剛の兄弟二人(この二人を仁王尊という)等の諸天が居られたとあるのを見ても、御釈迦様は観音様から御教を受けたことがよく判ります。

 支那天台の祖南岳大師の記にも、「昔は霊山会場にあって妙法蓮華経を説き給い、今は西方浄土に在(い)まして阿弥陀仏と名付け奉る。しかも人界普現して救世(くぜ)観音菩薩となり給う。故に過去現在未来に渉る三世の利益は元観音一体に帰す」とあります。霊山会場とは布咀落迦山のことであります。

 こういう訳で南岳大師の言うごとく、法華経も実は観音様が最初の骨子を説かれたもので、未来に渉り世界経綸の鍵は釈迦が七十三歳の時に観音様から秘かに示されたのである。故に釈尊は吾七十三にして顕真実を得たと言われるのも、この事を指して言われたのであります。それ故正法、像法、末法の後は仏滅が来る事を知らされたのであります。仏が減すると言うことは観音様から知らされて初めて知られたのであります。

 阿弥陀や釈迦は自分の事より外に出来んが、観音様は三位一体の御働きが出来る。その観音様が御力を現わして居られないのは、阿弥陀と釈迦を余りにもてはやし過ぎて観音様を除外なされて居られた為であって、実に怪しからん事であります。

 世界は仏教、キリスト教、マホメット教とこの三大宗教であって、これを主神が御申付になって造られたのであります。

 仏教を説くには南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経の事から説いて行く事になります。是を説いたのは釈迦如来である。逆如来となる。「さかさ」の意味なり。

仏華を咲かせる経綸である
花は決して長く咲くものにあらず一時の事にて、
  日蓮宗は世間よく一代法華という。
南無妙法蓮華経の事を称して七字の称号と言う。

     

  仏とは人間の向上したるものにして神の次のものなり。
 天は五、中界六、地は七である。逆の弥勒の悪の教。
 阿弥陀は素盞嗚尊の化神なり。

 仏教には密教と顕教とあり、密教は六ケ敷(むずかし)いのである。
 天台宗には一番多くあて字がある。

 主神が素盞嗚尊に命ぜられユダヤ民族を造られ、物質を始められる様になられたのであるが、皆これは今まで来るべき道程で主神の御経綸であった。

 未 来    過 去    現 在
 最勝妙如来  正法妙如来  普光山王如来
 
 日―観音―南海大士 三十三相どころか非常に沢山に御名がある。
 勢至(せいし)菩薩といえば観音と共に働く時の名である。
(観音勢至 五十七歳)

 日本の武家時代は大六天魔王の活動であった。今でも未だこれがある。これ皆素盞嗚尊の悪の経綸にして、それが為に現今のごとく物質文化が発達して来たのであるから、これも必要なる悪の経綸である。これらのことをキリスト教や仏教が聞いたならば驚く事ならんも、今までの事実なのだから致し方ないのである。


 二千年前にユダヤに石屋組合があった。それからユダヤ人が中心となり、世界統一の陰謀国となったので、それが今日においては全世界の富の四分の三を持っていて、なおその外言論機関の四分の三を占めている。これは欧州米国等ばかりでなく、日本までも手を延して言論機関は今や掌握されそうである。四十五年この方朝日、日日等は占領されて終ったのである。これらは皆ユダヤの資本家の手に帰して終ったのである。読売も半分も手に入った。フリーメーソンは日本でも大臣級の人が入っていて、英国皇帝もフリーメーソンの一員である。

 医者(イシヤ)
 石屋フリーメーソン医術により人間の命を縮め様としていたので、ユダヤ人の作った医学である。

 今や日本の人達の生命はユダヤ人が医者を通じて握ってしまったのである。進歩したかのように教えられながら誤魔化されているのである。日本人もイシヤに騙されているのである。

   三尊の弥陀と五六七

  五、応身弥勒――観世音-子-璽-火-日-日本-合一-十-真
 六、法身弥勒――阿弥陀-母-剣-水-月-西洋-体 -緯-美
 七、報身弥勒――釈 迦-父-鏡-土-地-東洋-霊 -経-善

    弥勒三会 (三位一体)

 日-太陽-観世音-伊都能売尊-応身弥勒
 月-月球-阿弥陀-素盞嗚尊-法身弥勒
 地-地球-釈 迦-若姫岐美尊-報身弥勒

 三位一体という言葉が残されているのは、三尊者合一するという意味である。法身は水の働きのみ、現世よりも霊界即ち浄土へ救うのが眼目で、西方へ浄土を造るから仏(覚者)となった。お弟子を寄こされたいと釈迦に誓って西方へ行かれた。寂光の浄土と云い、寂光とは淋しい光即ち月の光で月の霊界である。

 キリスト教では天の父と天の子と聖霊とにて三位一体という。仏教は祖先を祭り子孫へこれを残して行く故狭い。

 仏   教-経-父-小乗-火-東-男-善
 キリスト教-緯-母-大乗-水-西-女-悪

 仏教は階級愛-忠孝。東洋民族は善人である。支那の悪は西洋文明に禍(わざわい)されたのである。善なる為に体を無視する。

 キリスト教は隣人愛-夫婦愛-西洋人は悪なる為に体を本意とするのである。しかし、経も緯も悪いがこれを結ぶと良いのである。

 イエス・キリストは礫刑(たっけい)に成ったがこれになる様にと印を付けたのである。

 この経緯を結ぶのが観音会の使命である。




 稜威(いつ)八紘に輝く、これは善悪二つを結び、日本を中心にあらゆる力が出た時八紘に輝くのである。今は天皇の稜威は現われていないが、今後において日本が西洋を結んで初めて御稜威(みいつ)が八紘に輝くのである。

霊体 ムスビ 日本(今後出来る)

 伊都能売の働き
 観音の働き
 自由無碍の働き


 日本人は純金であるが、今の日本人は鍍金(メッキ)位が多い。朝鮮、支那は九金か其処等(そこら)のものである。

 今までは夜であるから月と星(英米)とが主になって来たのであったが、いよいよ日が出て夜が明けたのである。

 素盞嗚尊は黄泉の国へ行ったとあるが、それは黄泉の国(常世)夜の世界、夜見の国、月星(英米)が威張っていたのも夜の世界であった為である。日がいよいよ中天に昇った時は月も星も影をひそめて終うのである。この時こそ大光明世界なのであります。

 これに反し仏教の方の説き方は非常に違う。余りに安直なる説き方である。

 真の大乗、小乗

  小乗は-善-仏では利己の為-真の小乗は浅見


        人の目に善と見える事。
        爆弾三勇士-小乗の善-忠孝

 小乗門=善の話をすると入りたがる者(善が悪になることもあり)。
 大 乗=仏では利他の為-真の大乗は深見。
 大乗門=盗人悪人の仲間に入り人を救う事、秘密罪悪ある者も入れて救うのである 
     (悪が善になることもある)。

 この大乗の説き方で行くと露西亜(ロシア)は日本の一番の恩人である。ロシヤ国がもしも戦争好きでなかったならば、日本が満州を経営する事は出来なかったのである。日露戦争ありし為日本が満州を手に入れ、それが起幹となり満州に進出出来たから大いにロシヤに感謝してよいのである。しかしながらロシヤは悪をやろうとして日本へ善い様にしむけてくれたのであるから、一方へは善くなるのであるから、善悪不二、正邪一如というのである。張学良もこの点で言うと北大衛の変を起してくれたから満州へ進出出来た。日本へ対しては善である。

 我々も病気が無かったら観音様を知らなかったのである。その点で病気に救われたのであるから、この病気は何百年何千年も先まで永久に救われた大恩人となるのである。

 小乗的善人は行詰る。大乗で行った人は勝つが非常に間違が起る。小乗で行って導き追々(おいおい)と大乗に導くのである。行いは必ず小乗でやらなければならん。観(み)る時は大乗の頭で以って観ればよろしいのである。

 菊の花

 菊の花は平面に見れば日本となり、又経にもなる。天地にも開く。

 天へ照せば五風十雨のくるいなく、地へ照せば鉱物の在所が直ちに判る。地下に光がさせば透視することが出来る。まず金へ光が照らすから反射して山や地中から光が出るので早速金のあるところが知れるのである。それ故入用なだけ掘れば宜しいのである。貧乏をなしにする事の出来るのもこの為である。

 国家が金を掘れば人民より無理に税金を取上げなくとも良いのである。又農作物でももっと沢山取れる様になる。今日より三倍位取れる。肥料が不要となるのである。なぜ肥料が不要となるかと言えば、「光」が立派な肥料となるからである。又光に逢うと虫害がなくなるのである。農作物は豊富に収穫の出来る時が事実来るのである。

 「三種の神器の働き」

  日本 真(玉)真玉とは真丸の事(麻邇の玉)
     観音-五-天-明-合
     真中-真は総ての中心-中-(観)-赤
     天照大神    日本-大
  東洋 善(鏡) 経-霊
     釈迦 (善の鏡)-七-地-土-黄
     左  男
     盤古神王  支那-小

  西洋 美(剣)緯 剣は飾り (人を切らぬ)(身を守る)
           劒(つるぎ)は人を切る劒(ヤイバ)
     阿弥陀(阿弥陀の利剣) 六
     右-女-中-雲-白-体
     素盞嗚尊-朝鮮-中

 仏教で肝心なのは法滅尽経及弥勒成就経である。滅法後ミロク下生して苦集滅道を説き道法礼節を開示すと出ています。

  苦  一切の苦悩   病貧争
  集  それを集めて  総て寄せて
  滅  絶無にする
  道  行り方     活動 運動

 病気を治すに  霊的療法(悪霊を追出す)
         体的療法 (医者)
 観音会はどちらも言わぬ、片よらぬ治し方である。

 道法礼節

     ミ-体-身
      チ-霊-血  伊都能売 又は観音である。

 道はあらゆるものゝ通るべき筋。日月が東より西へ行くにも軌道がある。一切は道により成り立ち進んで行く観音行である。道とは首に辶(しんにゅう)、首は元首、人民の頭、首かくのごとくに、辶(しんにゅう)をかけたのだ。非常に意味がある。

   
 観音会はこれを全世界に判らせる御用なのである。天地の法に外れねば総て旨く行くのである。天地の法律の事(造物主が造った法律)、道法(観音の法律)、完全無欠の法の事である。

 法「水を去る」と言う字。火なり(ホホ)、水臭い水気があるとて水は正しくないのである。ヒはホにして炎、ホのホとなる。手も触れられざる厳として犯すべからざるもの(水は融通がきく)。

   
 神は順序なり、共産主義は之を打破ろうとしている。軍隊も礼儀のある為に強いのである。礼儀は順序から出たもの礼儀なくば順序たたず。
 礼〔禮〕は豊を示すと書く。余裕ある事、上流の金持が(富者)礼儀正しく貧者は正しからず、自ら階級あるのが本当である。礼儀あれば貧乏無くなるのである。
 親鸞には弟子一人もなく皆御同行なりと言うたが、日本共産主義の一番初めの人なり。そのくせ弟子に○○等と言うのがあったのである。

   
 節(ふし)なくば総て物は進行せず、春、夏、秋、冬も節なり。観音運動にも節がある。節を越えると進行する。一時的に止るのは節ですから止っても心配は不要である。音楽でも節がある為非常によく聞えるのである。国家の戦争も節です。日本の日清、日露、欧州大戦、満州事変等が節で、この節の為日本はよくなった。節は勢を止める為一層強くなる。伸び放題にするのは悪い。止めると勢が強くなる。節を知らぬ者は途中でくたびれる。節がなければノッぺラボーで弱いし折れる。

 以上のごとく、これから道法礼節を開示するのである。なんでも道あり法則あるならば法の通りに座し法の通りに歩き行い寝るにも法あり。それによって順序立ち行く。又何んでも節に合せて行えば旨くいく。これを立派に行えば観音行の出来た立派な人となるのである。これを二千六百年前に釈迦が説かれたのである。
            (昭和十年七月二十五日)

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