《東方の光 下巻》 海外布教(1)『アメリカを救う』

 教祖の巡教が行なわれたこの時代に始まり、大きな進展をみたものに海外布教がある。昭和二十五年(1950年)、日本観音教団と日本五六七(みろく)教が統一されて、世界救世教(メシヤ)として発足した時、教祖は、

 「これ迄は観音菩薩の御働きであったから、言はば東洋的であった。然るに時期切迫の為どうしても一大飛躍によって全人類を救はなければならない。とすれば世界的に拡充する必要がある。」

と述べている。

 世界布教が開始される直接のきっかけとなった一つには、当時埼玉県にあった「和光(わこう)教会」の信者、立松文二(たてまつぶんじ)のアメリカ留学である。立松は昭和二十六年(1951年)夏から一年、アメリカに滞在する間、アメリカ社会におけるさまざまな病気の罹病率について何度か教祖のもとに報告を送ってきた。

 教祖はかねがね、世界布教の第一の候補地として、アメリカに着目していた。アメリカは歴史こそ浅いが、西洋の近代文明を高度に発展させ、もっとも豊かな物質文明を実現させた国であるから、物質文明の素晴らしさと、その反面の欠陥は、端的にアメリカの社会に見出されるはずであると見てとっていた。果たせるかな、教祖の予想は適中した。癌や心臓病はもちろんのこと、結核にいたるまで病人の数が増加していると、立松の報告は告げていた。

 教祖は、こうした現代文明の誤りを正してアメリカの窮状を救うため、一冊の書物を発刊することを決意した。それが、『アメリカを救う』という著作である。

 この本は、新聞にも広告を掲載し、全国書店を通じて広く一般に販売された。それにしてもこの標題は極めて卓抜なものと言わなければならない。日本はアメリカとの戦争にやぶれ、しかもその力を借りてようやく復興し、昭和二十七年(1952年)に宿願の独立を果たして国際社会の仲間入りをしたばかりであった。精神的にも、明治以来の西欧に対する劣等意識が増幅され、対アメリカ観には卑屈なものさえあった時代である。そのような時に『アメリカを救う』という題名のもとに書物を出版したということが、奇想天外、おおいに世間の耳目をそばだてたのであった。

 教祖が世界の国々の中からまずアメリカを選び、同国への布教に並々ならぬ情熱を燃やし、その構想を具体化していったのは、深い霊的意義に基づくものである。これについて教祖は後に、

 「世界の文明の中の緯(よこ)の文明、物質文明の代表としてはアメリカで、精神文明の代表者としては日本で、要するに緯の文明の親玉がアメリカで、経(たて)の文明の親玉が日本で、この経と緯を結んで本当の文明が生まれるのだ。そうするとアメリカと日本の文明を結ぶという事が一番肝心な事です。」

と述べている。

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