『文明の創造』総篇  悪と守護霊(文創  昭和二十七年)

 前項の如く、現在迄必要であった悪が、不必要になったとしても、そう容易(たやす)く追放される訳にはゆかないが、それに就(つい)ての神の経綸は寔(まこと)に幽玄微妙なるものがある。之は追々説いてゆくが、茲(ここ)で前以て知らねばならない事は、抑々(そもそも)宇宙の構成である。言う迄もなく宇宙の中心には太陽、月球、地球の三塊が浮在している。そこで此三塊の元素を説明してみると、太陽は火素、月球は水素、地球は窒素というようになっており、此三元素は勿論各々の特質を有ち、夫々(それぞれ)の本能を発揮しているが、右の中(うち)の火素、水素の二精気が密合して大気となり、地球を囲繞(いにょう)しつつ、一切万有の生成化育を営んでいるのである。

 そうして地球上のあり方であるが、之は陰と陽に別けられている。即ち陽は火の精、陰は水の精であって、火は経(たて)に燃え、水は緯(よこ)に流れており、此経緯が綾状となって運動している。此状態こそ想像もつかない程の超微粒線の交錯であって地上或(ある)程度の高さに迄達しており、之が空気の層であり、大気でもある。右の如く陽と陰との本質が具体化して、火水、熱冷、昼夜、明暗、霊体、男女等々に表われているのである。又之を善悪に分ければ陽は霊で善であり、陰は体で悪である。此意味に於て善も悪も対照的のものであって、之が大自然の基本的様相である。

 此理は人間を見ても分る如く、人体は見ゆる肉体と、見えざる霊の二元素から成立っており、体と霊とは密接不離の関係にあって、人間が生命を保持しているのも此両者の結合から生れた生命力によるのである。処が茲に一つの法則がある。それは霊が主で体が従であって、之は事実がよく示している。即ち人間霊の中心である心に意欲が起るや、体に命令し行為に移るのであるから、霊こそ人間の本体であり、支配者であるのは明かである。そこで霊は何が故に悪心を起すかというと、之が最も重要なる焦点であるから詳しくかいてみるが、それにはどうしても宗教的に説かねばならないから、其(その)つもりで読まれたい。というのは善悪は心の問題であるからである。

 偖(さ)て愈々(いよいよ)本論に移るが、右の如く人間は霊と体との両者で成立っている以上、肉体のみを対象として出来た科学では、如何に進歩したといっても畢竟(ひっきょう)一方的跛行的(はこうてき)であってみれば、真の科学は生れる筈(はず)はないのは分り切った話である。之に反し吾々の方は霊体両者の関係を基本として成立ったものである以上、之こそ真の科学でなくて何であろう。

 以上の如く善悪なるものは心即ち霊が元であり、而(しか)も霊主体従の法則を真理として、之から解き進める説を充分玩味するに於ては、根本から分る筈である。処で先ず人間というものの発生であるが、言う迄もなく姙娠である。之を唯物的にいえば男性の精虫一個が、女性の卵巣に飛込んで胚胎(はいたい)する。之を霊的に言えば神の分霊が一個の魂となって宿るのである。そうして月満ちてオギャーと生れるや右の魂以外別に二つの魂が接近し、茲(ここ)に三つの魂の関係が結ばれる。右の二つの魂とは一は副守護霊といって動物霊であり、多くは二、三才の頃に憑依(ひょうい)する。今一つは正守護霊といって直接憑依はしないが、絶えず身辺に着き添い守護の役をする。勿論右の二霊共一生を通じて離れる事はないから、言わば人間は三者共同体といってもいい。其様な訳で第一に宿った魂こそ本守護霊と言い、神性そのものであり、之こそ良心でもある。昔から人の性は善なりというのは之を指すのである。第二の副守護霊とは右と反対で悪そのものであるから、常に本守護霊の善と闘っているのは誰も自分の肚の中を思えば分る筈である。第三の正守護霊とは祖霊中から選抜されたものであって、不断に其人の身辺に附添い、守護の役目をしている。例えば災害、危難、病気、悪行、怠慢、堕落等々、凡(すべ)て其人を不幸に導く原因を防止する。よく虫が知らせる、夢知らせ、邪魔が入る、食違い、間が悪いなどというのがそれである。又何かの事情で汽車に乗遅れた為、危難を免(まぬが)れる事などもそれであり、悪に接近しようとすると故障が起き、不可能になったりするのもそれである。そうして本霊と副霊とは常に闘っており、本霊が勝てば善を行うが、副霊が勝てば悪を行う事になるから、人間は神と動物との中間性であって、向上すれば神の如く、堕落すれば獣の如くになるのは世間を見てもよく分るであろう。では一体副霊とは何の霊かというと、日本人は男性にあっては天狗、蛇、狸、馬、犬、鳥類等の死霊(しりょう)が主で、其他種々の霊もあり、女性にあっては狐、蛇、猫、鳥類等の死霊が主で、他にも色々な霊があり、又此副守護霊以外臨時に憑(つ)く霊もある。斯んな事をいうと現代人は馬鹿々々しくて到底信じられまいが、之は一点の誤りなき真実であって、之が信じられないのは其人は唯物迷信の為であるから此迷信を一擲(いってき)すれば直(じき)に判るのである。何よりも人間は其憑いている動物霊の性質がよく表われているもので、注意すれば何人にも分る筈である。

 右の如く臨時に憑く霊も、殆(ほと)んどは動物霊であって、偶(たま)には人間の死霊もあり、極(ご)く稀(まれ)には生霊(いきりょう)もある。では臨時霊が憑く理由は何かというと、言う迄もなく其人の霊の清濁(せいだく)によるので、曇りの多い程悪霊(あくりょう)が憑き易く、又元からの副霊の力も増すから、どうしても悪い事をするようになる。此理によって現代人の大部分は霊が曇り切っているから、悪霊が憑き易く活動し易い為、犯罪が増えるのである。処がそれとは反対に神仏の信仰者は曇りが少なく、善行を好むのは魂が清まっており、悪霊を制圧する力が強いからで、茲に信仰の価値があるのである。従って無信仰者は平常善人らしく見えても、何時悪霊が憑依するか分らない状態にあるので、一種の危険人物といってもいい訳である。此理によってより良き社会を実現するには、清い魂の持主を増やすより外に道はないのである。そうして本来魂なるものは一種の発光体であって、動物霊は此光を最も怖れるのである。処が現代人の殆んどは魂が曇っており、動物霊という御客様は洵(まこと)に入りいいようになっているから、忽(たちま)ち人間は躍(おど)らせられるので、百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)の社会状態になっているのも当然である。而も其様な事に盲目である為政者(いせいしゃ)は、只(ただ)法と刑罰のみによって悪を防止しようとしているのであるから、全然的(まと)を外した膏薬張(こうやくばり)で効果の挙がる筈がないのである。何よりも国会を見ても分る如く、殆んどの議案は法律改正と追加という膏薬製造法であるから、之を常に見せつけられる吾々は、其の無智に長大息(ちょうたいそく)を禁じ得ないのである。

 以上の如く悪なるものは大体判ったであろうが、此根本解決こそ信仰以外にない事は言うまでもない。併(しか)し単に信仰といっても其拝む的である神にも上中下の階級があり、それが百八十一級にも及んでいると共に、正神と邪神との差別もあるから、之を見別けるには相当困難が伴うのである。世間よく熱烈な信仰を捧げても思うような御利益がなく、病気も治らず、行いも面白くない人があるが、それは其的である神の力が弱く、邪神の活躍を阻止する事が出来ないからである。而も困る事には此状態を見る世人は、之こそ低級な迷信と思い、偶々本教の如き正しい宗教を見てもそれと同一視するのであるから実に遺憾に堪えないのである。そうして昔から一般人は神とさえ言えば、只尊いもの有難いものと決めて了(しま)い、差別のあるなど知らない為、甚だ危険でもあった。尤(もっと)も今日迄最高神の宗教は全然現われなかったからでもあるが、喜ぶべし茲に最高神は顕現され給うたのである。

 それが為今日迄の神は仮(たと)え正しく共次位の階級であるから、其力が弱く正邪相争う場合一時的ではあるが悪の方が勝つので、之を見る人々はそれに憧(あこが)れ、真似しようとする。特に野心あり力量ある者程そうであるのは、歴史を見ても分る通り、幾多英雄豪傑(ごうけつ)の足跡である。成程一時は成功しても最後は必ず失敗するのは例外がないのである。之を霊的にみると其悉くは邪神界の大物の憑依であって面白い事には最初はトントン拍子にゆくので有頂天になるが、それも或程度迄で必ず挫折する。そうなると憑依霊は忽(たちま)ち脱却して了う。吾々の知る範囲内でもカイゼル、ムッソリーニ、ヒットラーの如きがそうで、失敗後は人が違うかと思う程痴呆暗愚的(ちほうあんぐてき)に気の抜けたようになったが、之は大きな邪霊が抜けた後は誰でもそうなるものである。そうして驚くべき事は邪神界の総頭領は、今から二千数百年前、世界の覇権を握るべく、周到綿密にして永遠な計画を立て、現在迄暗躍を続けつつあるが、正神界の方でも之に対立し戦っているのである。其神としてはキリスト、釈迦、マホメット、国常立尊の系統の神である。

 以上の如く主神は正神と邪神とを対立させ闘争させつつ文化を進めて来たのであるが、其結果遂に邪神の方が九分九厘迄勝ったのが現在であって、茲に主神は愈々一厘の力を顕現され、彼等の大計画を一挙に転覆させ給う、之が九分九厘と一厘の闘いであって、今や其一歩手前に迄来たのである。従って此真相を把握されたとしたら、何人と雖(いえど)も飜然(ほんぜん)と目覚めない訳にはゆかないであろう。

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