神の審判は文化的である(未発表 昭和25年9月)

 今度の事件で私は、四十七日間の拘留を受け、ほとんど毎日のように調査訊問を受け、一つの取調べに実に大変な手数のかかるには、初めての私はただただ驚愕きょうがくのあまり、むしろ呆然としたのである。

 まず、私と金久平を逮捕するために、八十人の武装警官が動員され数時間にわたり四ケ所の家宅捜索を受けた。そして私達の身柄は拘置所へ数人の警官につきそわれ拘引こういんされる。

 四十七日間三度三度食事を給されるはもちろん、看守は付きっきり、どこへ行くにも離れた事はない。調査はほとんど毎日行われる。時には七、八人でとり調べられ、一つの調書をとるにも一日掛りである。検察庁へは度々送られる。その手数と国費の費消、時間の消費は大変なものである。

 もし私にこれだけの人員と手数と時間を与えられたとしたら、私は優に百人の善良なる国民を造り得る位の仕事はなし得たであろうと思う。

 今、新国家再建の重大なる時、実に勿体ない事である。しかも私は少なくとも神を信じ、社会のため少しでも善事を行わんとしているものであって、何ら社会に害を及ぼすものでない事を断言してはばからぬ。こういう人間を罰するために、これだけの大仕掛の浪費をなさねばならぬ要がどこにあろうか、実に奇異な感で一杯であった。しかも一方、法網を潜って大多数国民の苦しみを犠牲にしている大悪人もある。

 戦後の殺人、強盗、窃盗等の脅威は完全にとられていない。これだけの動員力をなぜその方面へ注入されないであろうか。

 吾々のごとき社会に害毒を流さないものを苦しめるよりは、まずそれらの社会の脅威を除くべきが警察本来の使命ではなかろうか、と私は係官に数回も言ったものである。

 御垂示によれば、霊界の審判は実に公平であって、三途さんずの川を霊が渡る時、それぞれの罪の多寡たかに応じて公平に審判さばかれて行く、従って一点の誤審も手数も要らぬ訳である。こういう形式がもし現界に行われるとしたら、いかに手数が国費が省かれる事であろう。しかし、それは夢としか思えない。

 ところが、その夢を神は立派に実現された。それは大光明の出現である。今日まで調査を充分しなければ罪悪が発見されなかったのは罪悪と暗さが平均していたからである。人間の所持する罪悪の暗黒面もなかなか捕捉し難く、その暗黒の表われたる証拠を唯一の手掛りとした。しかし、そこに一度光明が出現する時、明るさはいかに隠蔽いんぺいせる醜悪もあらわに露呈するであろう。隠蔽も湮滅いんめつも火の前には無効である。それぞれ所得の罪は何の手数も要せずさばかれて行くのである。これこそ、真に文化的の審理である。

 ああ、この光が物質化される発明は出来ないものだろうかと、つくづく感じた事である。


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