豚箱入り(自観叢書九  昭和二十四年十二月三十日)

 忘れもしない、昭和十一年八月四日の事であった。突如埼玉県大宮警察から呼出し状が来た。翌五日その頃玉川上野毛の今の五六七教会集会所になっている私の住宅から警察へ赴いたのである。
 その訳はこうである、当時、大日本観音教会(創立は昭和九年十月)の会長をしておった私は当時支部が埼玉県大宮市にあり、その支部長として武井某なる者が、大宮市にあった片倉製糸で女工千人くらいを収容していた大工場があった。その女工連中の病気を多数治した事から医師法違反に引掛り、武井が警察へ留置されると共に、その会長たる私が調べられる事になったので、その時の経緯は次のごときものであった。
 警察へ到着、しばらく待った後、その頃の一大勢力であった特高と呼ばれた主任の前に呼出された。主任いわく
「お前は大日本観音会の会長か?」
私「ハイ、さようであります」
主任「お前はいつも簾(みす)の中にいて生神様になっているんだろう」
私「トンでもない、そんな事はありません」
主任「虚言うな、お前が生神様なら罰をあてる事が出来るだろう――」と言って傍にいた刑事と名乗る二人の男に眼くばせした。その頃の私は頭髪を相当伸ばしていたので右の二人は左右から髪の毛をイヤという程引張るので、痛さに堪え兼ね詫びたので、彼らもようやく手を放した。
主任「武井の家の部屋に懸っていたお前の霊写真という変な写真はアリャ何だ、お前が作ったのだろう。それを詳しく話せ」
私「あれは作り物ではありません、一昨年十月一日東某という人が訪ねて来て、種々宗教上の話を取交し、最後に私を写した。ところが御覧の通りああいう不思議な霊写真が出来たのであります」
 その時私の周りを取巻いていた警官の中大きな男が二人、イキナリ剣術の竹刀を執って身構え、
「きさまは吾々を騙す気か、今言った事は嘘だ、もう一遍言ってみろ、きさまの腰骨をブッ砕く」――と言って脅すのである。私は吃驚した――本当の事を言えば腰骨を砕かれ、どんな眼に遇うか知れない、あるいは不具にされるか分らない、といって私は嘘を言うのは嫌だ――という訳で、一言の言葉も発する事も出来ず、やむを得ず沈思瞑目していたので、彼らも手の施しようがなく再び訊問は開始された。その時不思議なるかな、先刻髪の毛を引っ張った一人が、「俺は頭が痛い、変だな」と言う、すると、傍の二、三人は、「ソレはきさまの神経だ、そんな馬鹿な事があって堪るもんか」と言ったが痛みが去らないと見えて、スゴスゴ室外へ退散した。ところが今一人の男も間もなく退散したので、私は「神様にやられたな」と思った。そればかりではない、いつの間にか主任一人を残して全部消えてしまったのである。主任は暫くして聴取書を作って読上げた。その中の霊写真に関する項は、「私が作った美術写真」とかいてあるのだ。私は、「事実と異(ちが)う」と言おうとしたが、また拷問されては堪らない――と自棄的となり、言うがままに捺印してしまった。意外にもその書類が警視庁へ廻ったので、警視庁では、「岡田という奴はインチキ野郎だ怪しからん奴だ」という訳でブラックリストへ載せてしまった。全く拷問によって虚偽の聴取書を作り良民を悪人にしてしまったので、実に恐ろしい世の中と思ったのである。これによってみても当時の官憲がいかに横暴で、封建的であったかが知らるるのである。そのブラックリストのために、その後私は事毎に苦しめられた。私が住居を変える毎に、その管轄の警察へ通報が行くので、その警察は私の看視を怠らず、何とかして私を罪人にしようと専心したので、私はどうする事も出来なかったと共に、いつブタ箱へ入れられ、家宅捜索を受けるか判らない心配で、枕を高くして寝る事すら出来なかったのである。故に終戦までは新宗教は共産主義とほとんど同様の扱いを受けたといってもいい、右のような訳で私が常に思っていた事は、
「自分は人類社会のため、これ程立派な行いをしながら、これ程圧迫されるという事は、実に残念である、しかしこれも神様から修行させられるのだ」――と思い直しては腹の虫を制えつけたものである。これについては大本数のお筆先に――
「コレ程、善い事を致してこれ程悪く言われるのも都合の事じゃ、時節を待て」という事が、私の胸に強く焼きついていたためもある。
 大宮警察の調べは前述の通りで、一晩ブタ箱に容れられ、翌日釈放されたのである。
 大宮警察の事から、私は警視庁からインチキの烙印を捺された結果、とうとう所轄警察玉川署へ引致(いんち)され、十一日間のブタ箱入りとなったのである。もっともその当時大本教を脱退した元幹部級の者を取調べる方針のためもあった。そこで入念な家宅捜索などをされたが、別段法規に触れる点がなかったので、無事にケリが着いたのである。しかし弱った事には治療禁止という大鉄槌であった。その頃私は宗教と療術行為と両方やっており、しかも療術行為の方が私の経済を支えていたので、たちまち収入の途が杜絶え、一時は前途暗澹たるものであった。
 しかるに種々運動嘆願などによって一年三ケ月の浪人生活は終り、再び業務に就く事を許された。但しその条件として宗教と療術行為を両方やってはいけない、どっちか一方にしろというので、私は経済上宗教を捨て、療術のみで立つ事になったが、その時が昭和十二年十月二十二日であった。

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