一切は神様を中心にする
《お伺い》熱海会館の御奉仕の方法と申しますと変ですが、会長の言葉を聞きましてK会でのそのあり方が本当になってきたと思われますのは、今度1000万円なら1000万円を御奉仕させて戴くという事でなく、是非お許し戴きたいとお願い致しますと、それから非常にスウスウと参ります。
《御垂示》そうです。それはちょっとした事ですが、今までとは反対なのです。
《お伺い》それで生活の面でも、今では大変お蔭を戴きましたが、自分で垣を作ってその中に入って窮屈になって、四角三角になって苦しんでいるのは、ただ自分で苦しんでいた事でありまして、本当に楽になるものをと思いまして、大変有難い事でございます。
《御垂示》そうです。この間のお蔭話に、自分がどこか悪くて「親父が今朝はたいへん朗らかだから、こういう時にやってもらったら効果があるだろう」と書いてあったので、それはつき返してやったのです。親父が朗らかだからと言うと、親父にやって貰っているように思っているのです。神様というのを全然忘れているのです。だから見当が違っているからつき返してやったのです。こういう事も大変な間違いです。一切は神様を中心にすると何でもないのです。どうも人間的な考えになるのです。
神様くらい深いものはない。言うのは何を言っても良いが、スラスラといかない事はやめるのです。
《お伺い》明主様お詫びをさせて戴きます。大和会の事件以来四年になりますが、最近は御教えを戴きまして、自分でも変わらせて戴いた様に思われますが、すべての原因は自分であった、という事を分からせて戴きました。
《御垂示》そうです。つまり自分の考えが邪魔しているのです。
《お伺い》それを変わらせて戴きましてから、廻りの人とも気持ちよく話し合えます。誠に有難うございました。
《御垂示》そうですよ。
《お伺い》実は前の因縁の弟子連中が、新しい服を作らせて貰いたいという事ですので、結構だと話したのですが、自分で気付くと神様の方でいろいろして下されるという事でございますので。
《御垂示》そうです。神様の方でなくて人間の方でもよくそういう事があります。この間も銀座の日新房という、前から知っている美術社がありますが、そこに出品した作家で、一度是非見てくれと言ってここまで持って来ましたが、それを見て後、社長にうんと言ってやったのです。「これの一番悪いのは苦心して作ってある。だからその苦心した苦しみが作品に現われているから良い感じがしない。だからこういう物の作者にあなたが良く言ってやんなさい」と言ったのです。楽しみ楽しみ、楽な気持でやると良いが、みんな苦心しているから、それが作品に現われているから駄目なのです。お世辞かもしれないが、社長は良い事を聞いたと言って帰りました。だから昨今の展覧会に行っても気持ちが悪いのです。みんな苦心して画いてあるのです。その霊がみんなこっちに来るのですから、楽しむ事は出来ません。だから今の絵も楽しむ事が出来ないのです。ちょっと見ていると嫌な気持ちになって来るのです。だから私がいつも言う通り、苦しんでやる事にろくなものはないというのは、その事です。
《お伺い》夜の世界とでも申しますか、どうも苦しむ事が多いようでございます。
《御垂示》そうです。暗闇を歩いているのだから危なくてしようがないのです。それで昼間の世界になって来たのに、そんなに怖がっているのは、おかしいもので、手間取ります。それと同じ事です。しかしそうは言うものの長い間のいろいろな習慣があるから、つい人間的の心配や苦しみをやりたがるものです。私などよくそういう事があります。
《お伺い》今の神様の事を主にしないという御言葉で、非常にお蔭を戴いたのに御礼をしないというのがありますが、実はお許しがないから出来ないのだと考えますと、そういう場合にも、ははあ、お許しがないのだな、と思いますと苦しみません。
《御垂示》そうです。自分はお蔭を戴いていても信仰に入らないのがありますが、本人は信仰に入りたいのですが、邪魔があったりするのです。それは何かと言うと、神様が許されないのです。それからこういう事がよくあります。熱心な人があって、フッと来なくなったり、他の事をやってみたり、いろいろしますが、そうすると随分馬鹿な奴だと思いますが、そうではないのです。神様が、お前は入れてやったが汚ないものがあるからもっと苦労しろというので、要するに資格がないというので神様がつまみ出されるのです。そういう点は解釈の仕方が違うのです。だから入るという事は、その人が入りたいから入っているのでなく、神様がお許しになるから入れるのです。そこは神様中心に考えると分かるのです。それから「あいつは邪魔する、酷い奴だ、ああいうのを神様はどうして生かしてある、許してあるのだろう」と言うが、それは神様に何かわけがあるのです。その時はそうでも、いずれは何かに使うのです。ですから要するに人間の判断というものは分からないものです。神様くらい深いものはありません。それはあべこべの様な事がよくあります。
《お伺い》八月十五日以前と敗戦以来ということで、我々が知っている世界でも変わりましたから、ましていわんや善悪を決めるという事などとても分かる筈はございません。
《御垂示》それを「あいつは間違っている、あいつは悪い」という事は、いつも言う通り神様の領分を犯しているのです。人間の分際でそういう事が分かるわけはないのです。ですから自分が正しいと思う事をしていれば良いので、人の事を言うのは余計なお世話です。
《お伺い》その余計なお世話でどの位罪をつくっているか分りません。
《御垂示》そうです。そういう場合に常識で判断しなければ駄目です。やっている経路でなく結論で判断するのです。良いとか悪いとかいろいろ議論しますが、議論は良いと思ってやっているのだが、議論してその結果はどうかという事です。議論をする結果としない結果を考えてみて、結局しない結果が良いのです。というのは、議論というのはそれが良いと思ってやっているのですが、ところがそれは神様しか分らないのです。だからある程度まで意見を言うが、そこでスラスラといかなければやめるのです。言うのは何を言っても良いのですが、そこであっさりとして、スラスラといかない事はやめるのです。これが本当に良い説なら誰も刃向う事は出来ません。それはそうだとなります。そういかないという事は、どこかにねり方が足りないという事になります。
神様に、どうでも勝手にしろと任せれば、決して粗相はありません
《お伺い》私は最近地方を巡らせて戴きまして、一番忘れてはいけないと思います事は、話を致します場合にも、初めに“明主様どうぞ”と御願して話をさせて戴くという事でございます。それを忘れていると変な気持になって、ははあおしかり戴いているな、と思いまして気が付きます。それを忘れなければ良いという事を考えさせられます。
《御垂示》そうなのです。ですから私も、「今日はこういう事を話そう」と用意する方が反って駄目です。無我で無意識に、ただ白紙で来ると反って良い事を話したり、思いも付かない面白い事になったりします。これは実に言うに言われないもので、理屈では分りません。それは何から何まで神様は狂いはないので、凄いものです。
《お伺い》この間地方での話で、メシヤ教に入って御教え通りにやっている積りだが御蔭がないという事があったら手を挙げて御覧なさい。今日はあなた方と入れ替って考えてあげよう、と申したのですが誰も居りません。それから、あなた方は何故遠慮して御蔭をいただくか、大変欲がない、それがよくないと話しましたら元気が出た様でございます。
《御垂示》つまり御蔭を忘れた時に御蔭は来るものです。御蔭が来そうなものだ、御蔭が欲しいと思う時には、御蔭は来ないのです。
《お伺い》私はこう思って居ります。『栄光』新聞に御蔭話が出ておりますが、一番御蔭を戴いている人は御礼を申し上げておりません。それではあなた方は、甲乙丙丁と段階があるとして甲から乙に落ちたいかと言いますと、いや本当に間違っていたと申しておりました。
《御垂示》本当言うと、御蔭というのを値打にするなら、無い命を助かるとすると、とにかくその人はどんな事を犠牲にしても構わないわけです。仮に御蔭を百貰って御礼を十上げると、九十は借金になります。借金になるからあとの御蔭があんまりないのです。だから本当に厳密に言うと、そこにいくのです。処が普通の人は御蔭を百貰って、神様の方に御礼が五十なら良い方です。全部やったら裸になるから……。それを二十とか三十にするから、あとの二十とか三十が借りになる。するとあとが悪くなるのです。それで仮にお金ならお金を上げると普通十倍になって返って来ます。お金を上げて貧乏になる様な宗教だったら信仰をやめた方が良いです。それは神様に力がないのです。
《お伺い》ですから私は、言う通りにしてその通りにならなかったら、私が責任を持つからやって御覧なさいと言っております。
《御垂示》こういう事は不断あんまり言いません。例の天理教とかの搾取的な宗教に見られやすいから言わないのですが、今日の様なこういう時は一般信者でないから、信仰の中学以上の人だから言います。本当言えばそんなものです。だから何にしてもそうです。今世間では、風邪を引くと大変だとか肺病が伝染しては大変だと病気を恐がっているが、メシヤ教に入るとその心配がなくなるのです。病気は結構だというこれだけでもその御蔭は大変です。世界中でメシヤ教信者くらい病気を恐れない人種というのはありません。だから神様に、どうでも勝手にしろと任せれば、決して粗相はありません。何しろこういう事は今迄にないのですから、世間一般は信仰的頭でそこまで分るという事は大変なものです。

