*自分が治そう治そうとする/映画/共産主義(御垂示録16号昭和27年12月1日②)

自分が治そう治そうとしている。それで神様を忘れている。

《お伺い》今度は、実動会員と言いますか、それが全部資格者になれる様にやって貰いたいと言っておりますが、昨日もはっきりと話させて戴きました。そこで資格者がしっかりしてくると、信者さんも分かってきますし、それをもって対外にいかなければならないと思います。

《御垂示》結局自分にあるのですから、思う様にならないという事は、まず自分のやり方を考えてみなければならないのです。そういうやり方というのは、私の本の何処かに書いてあるから、そこにあります。

《お伺い》それから『栄光』紙に出ております事で、明主様の御論文は絶対のものでございますが、しかし御蔭話というのは信者さんの感謝文なのだから、これを絶対と思ってはいけないと思います。といいますのは或る所で質問がありまして、「霊視日記」の中で御光がおいでになる、それが見えた、それは秒速十五メートル、と書いてありますので、どういうものかという質問がございました。

《御垂示》その人にはそう見えるのです。

《お伺い》それはその人が見た事であって、実はそうでなく御光は瞬間的で時間空間はない。「明主様」と申し上げると、その時に御守護があるのです。霊視は参考に考えるなら良いが、それでなければ全然嘘だから、と話したのでございます。

《御垂示》そうです。あれは本人の書いたままを出したので、甚だしく間違っているのは直しますが、なるべく訂正しない様にしているのです。訂正するという事になると面白くないのです。個人の御蔭話を訂正して大袈裟にしていると疑われるから、そういう事はしません。

《お伺い》御蔭話をよく見ておりますと、半分は最初に御詫びしなければならない様な事がございます。

《御垂示》この間こういう事があった。いろいろ一生懸命にやったが、どうしても良くならない。それから光明如来様に御願したら、それから直ぐに良くなった、というのですが、そういう時には自分が治そう治そうとしているのです。それで神様を忘れているのです。それが修行です。世間は間違った事が多く、それで長い間教育されているから、こっちの説があまりに世間と違うから、分かるまでは相当暇がかかります。

 今も出掛けにラジオの「婦人の時間」で、よく出る人で中々うまい人ですが、今度の池田通産大臣の失態の話が出ましたが、つまり池田というのは前から危ぶなっかしくて、私は好かないのです。何となく慢心している様なのです。

《お伺い》写真で見ましても、上品さという所がございません。

《御垂示》そうです。写真を見ても、いけ好かないです。だからいつか二度ばかり失言問題があった。今度もとうとうやったのですが、もうひと修行しなければ駄目です。ああいう事も実に頭が悪いのです。それからもう一つは、人間はたまには失言もするから、その時に謝れば良いのです。それを変な事を言うからいけないのです。「僕が間違っていた、言葉のアヤであそこまで言ったのは間違っていた」と謝罪するのです。そうすると割合に軽く済むのです。それを何や彼やと言い訳するから、きたないし人が同情を持たないから、好感を持たれないのです。ああいう所は実に馬鹿です。長い間大蔵大臣をしていてあの位の頭の悪さです。それを又、吉田首相が可愛がっているのですから、吉田首相という人も随分欠点はあります。あの位の偉い人でも見ていると危なくて注意したいと思う事がよくあります。この間鳩山さんが馬鹿に威勢良く、自分が次の総理にでもなりたい様にみえていたが、あれから鳩山さんに対する社会の感じが悪くなった。ああいう事が馬鹿です。何しろ病人で、政界からも隠退していたのだから、もっと柔かくふわっとして、吉田首相を立てれば、外の人でもなるほどと思います。あれでは体が良くても総理にするのはあやぶむという気持が起ります。あれだけの人ですが、実に頭が悪いというか、おかしい所があります。私は始終論文を書いてますが、最初の『光』新聞時代に金近ともう一人居ましたが、普通は三十号くらいで大抵行詰ってしまうが、種が尽きないであとが出るのは珍らしいと言ってましたが、その時が50号で、今は184号です。あとから幾らでも出るのです。それは何かと言うと、あんまり世間の人が欠点だらけなので幾らでも出るのです。だから如何に間違っている事が多いかという事が分かるのです。

《お伺い》御書きなさいます場合に、その主題を御考え遊ばされるのでございますか。

《御垂示》考える処ではなく、後から後から出てきて困るのです。だから考えるという事はありません。造営の場合でも、こうしようああしよう、どうしたら良いか、という事も殆ど考える事はありません。ただそういう時期が来るとパッと頭に出てくるのです。だから「地上天国」に行くと、此処をああするこうするという事が瞬間的に頭に出てくるのです。それで一寸考えて分らなければやめてしまうのです。それは実に早いです。目下頭の中には会館が出来て、そこの幕の模様までちゃんと出来ているのです。ただ時期によって、ここをどうしようかと思って考えが出ない時はそのままにしておくと、時期が来るとパッと浮ぶのです。

《お伺い》展望台の方を先におやりになられますのでございますか。

《御垂示》そうではありませんが、トンネルで続けてますから、同じに造る積りです。しかし毎日新聞社が企画してますから、展望台を先にしようというのです。会館の方は大変ですから、展望台の方が先が良いでしょう。あれならわけはありません。

映画

《お伺い》今度映画で明主様の御姿と御声が世界に出ます事を思いますと大変な事でございます。

《御垂示》そうです。つまり世界的に第一歩を踏むわけです。

《お伺い》本日は毎日新聞のプロデューサーの方も見えられて居ります。

《御垂示》そうですか。

《お伺い》映画の主題は「東方の光」という事に致したいと思いますが如何でございましょうか。

《御垂示》結構です。私は前から「東方の光」という事を言いたかったが、講和前はアメリカの人が誤解するといけないから言わなかったのです。それでこの間『栄光』に「東方の光」を出したのです。来年からは一寸面白くなってくるわけです。アメリカで分かってきたら面白いです。それに早いです。

 これからは映画というものは非常な役目をするのです。この間何かの記事で見た時、映画は芸術に入れるとか入れないという事が出てましたが、私は今度書いてみようと思ってます。芸術では、映画が一番の芸術と思ってます。何故かと言えば、映画くらい色んな芸術的なものが入っているものはないのです。あれは総合芸術です。第一番に、脚本(シナリオ)それからプロデューサーがいろいろ企画を作っていくという事。それに丁度適当する様な俳優の選択。その俳優の技芸、それから場面は室内もあれば室外もあるし、本物を背景にする場合もあるし、セットを使う場合もあり、光線の採り具合、ロケでの景色の選択と、あらゆるものを採り入れてます。外の芸術では幾つかに限られているが、映画というものは世の中のあらゆるものを採り入れてます。それで一つの作品をつくるのですから、この位すばらしい芸術はないと思ってます。だから芸術の王様です。それから写真の芸術があります。写真と言っても絵画的のいろんなやり方です。監督でもそういった絵画的なところを現わす者は少ないです。しかし近頃はなかなかうまいのがあります。絵画的場面を作るのがうまいのは豊田四郎です。それから時代の構想とか、時代時代の雰囲気とか色を出すという事もピッタリすると、見ていても非常に効果があります。処がどうかするとチョンマゲが通る横に電信柱が見えたり、それから対話でも、作者が新しい扱い方でやって、言葉などで随分変な事をやります。「僕は君を信ずる」と、チョンマゲ時代にそんな事は言いません。そうかと思うとその時代の言葉を使ったりしてゴチャゴチャです。そういう事をキチンとすると、やはり評判も良くなるし、その監督も認められるのです。どうもそういう点には割合無関心です。そういった外連けれんが非常に多いのです。

日本映画は特に外連が多いのです。

《お伺い》今度のメシヤ教の映画の場合の音楽は、雅楽は必要な要素でございましょうか。

《御垂示》いけません。

《お伺い》全部洋楽で致しますのでございましょうか。

《御垂示》そうです。雅楽というのは平安朝時代のものです。そうなるとこっちも衣冠束帯か何かでやらなければならない。能楽とか雅楽をやるのは、別にそういったものを作らなければなりません。宗教の方ではそういう事はやりません。むしろ最も新しくなければならないのです。だから建築でも最も新しいところを狙ったのです。今度出来る会館というのは、宗教建築では恐らく世界にありません。宗教建築と言うと、昔の伽藍式とかお宮式とかありますが、いくら伽藍式を立派に採り入れても京都の本願寺以上のものは出来ません。あれを安っぽくしたくらいのものです。そういうものは造る必要がないのです。私はこの間「墓場に支配される」という事を書いたのですが、そうすると二十世紀を狙うよりも、むしろ二十一世紀を狙うのが本当です。だから天理教などがやってますが、ああいう古い事は排斥したいくらいのものです。あれでは時代の進歩というものがありません。特に宗教ほど進歩のないものはないと思います。だから私は釈迦とかキリストという事を盛んに批評してますが、古い宗教で救えないという事は当たり前です。今の自動車の世の中に牛車に乗れという様なものです。それなら牛車に乗って町を歩いたらどうかという事です。ただ歴史的の趣味として見るのは構いませんが……。

共産主義

 だから私は今度の京都の美術館は、京都のお寺と提携して、仏像を並べ様と思ってます。本尊は残して、それ以外は全部借りて並べ様と思ってます。というのは、仏像というのは美術品と思っているからです。拝むものではなく、見るものです。そういった歴史的芸術的の価値なのです。仏教の方で聞くと怒るでしょうが、キリスト教でもそうです。今まではあれで良いが、これからは駄目です。とに角キリスト教が共産主義をやっつけるくらいの力があれば良いが、キリスト教の方がやっつけられているのです。今はキリストよりもレーニンの方が本当に人を動かす力があるから、それでは仕様がないのです。だからメシヤ教は今にレーニンでもスターリンでもやっつけます。これは私がやっているのではなく神様がやっているのです。実際馬鹿げた話です。それでこの間「平和主義を考えてみる」というのを書きました。私は時々ユネスコを奨められるのですがスターリンをユネスコに入れなければと言うのです。とに角世界の平和というものは、スターリンが手を合わせて神様を拝まなければならないのです。それ以外に世界平和は絶対にありません。世界中が第三次戦争が起りやしないかという脅威はスターリンです。クレムリンをそのままにしておいて、ほかだけ平和運動をしても何にもなりません。それで武器によって平和を維持するのは一時的で、これも仕方はないが永遠性はないのです。第一こっちがそうすればソ連の方も軍備を充実する。そのために無益な金を使うから、それで不景気になるとか苦しむのです。だから結局スターリンをメシヤ教信者にするという事が一番良いのです。それ以外の事は一時の間に合わせです。この間も話した事があるが、とに角共産主義の学説を破るだけの学説が出れば良いのです。それでなければ宗教です。それは共産主義の学説は実に良く出来ているのです。私でも神様という事を知らなければ共産主義の方に行きます。だから青年が学問をするとあれにはまり込むというのも無理はありません。

《お伺い》共産主義では凡てを経済という事で支配しておりますが、美という事につきましても、生活あってのものと考えている様でございます。

《御垂示》それはそうです。我々は美と別に思っているが、一般はそれと関連をもって思っているのです。

 今度保安庁長官になった木村さんは共産主義を非常に嫌ってますが、まず日本の共産主義をやっつけるという事は出来ないが、のさばらない様にする。つくらない様にするには、大学の教授の頭を切替えなければならない。結局学生がああなるというのは教授が仕込んだのです。だから学生などは教授の頭一つでどうにでもなるのです。まず教授の頭を切替える事と、もう一つは新聞です。少くとも三大新聞が共産主義というものはいけないという事をはっきりと書くだけで良いのです。結局において今の人間は物事の急所を見る事を知らないのです。物事には急所があるもので、現在としては大学教授の少しでも共産主義的の者はやめさせて、それからもう一つは共産主義をやっつけるだけの勝れた学説を作らなければならない。それは共産主義でもいかん資本主義でもいかんという最高の学説を作る事です。それは大して難かしい事ではありません。私でもやろうと思えば出来ます。とに角共産運動は思想から来てます。思想は学問から来てますから、学問のすばらしいものを作れば良いのです。アメリカでも共産主義は嫌ってますから、その位の学説は博士も大勢居るので作れそうなものだが、作る者がないのです。次に新聞ですが、これが大変なものです。この頃はそうでもないが、岡田茂吉と「氏」を付けないのです。それで徳田球一氏と「氏」を付けるのです。驚いてしまいました。というのは、結局新聞記者、ジャーナリストの再教育です。

《お伺い》先程も新聞の事につきましていろいろ話合いましたが、今日の新聞は特異性がないし特色がなくなった、というのは老後の事のみを考えて、対社会精神というものが抜けていると申したのでございます」

《御垂示》日本の新聞はお上品になり過ぎてしまったのです。というのは新聞はあまりに不利不闘不偏不党になり過ぎて主張がない、色がないのです。結局『朝日』を見ても『毎日』を見ても同じです。だから私は前に書いた事がありますが、日本に新聞が沢山あるという事は国家経済上も不経済だ、結局同じなのだから一つで間に合うのです。反って昔の方がそれぞれの特色がありました。一つの株式会社になった方が良いでしょう。

《お伺い》一つの新聞社くらいは特定の宗教を思い切り好意的に書くものがあっても良いのではないかと思いますが。

《御垂示》つまり読者に引ずられているのです。新聞が読者を引ずるというものがないのです。新聞ばかりでなく、一体に社会のあらゆる面がそうなってます。御座成り的になってます。その原因があるので、私は今それを書いてます。

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