プロテスタントとカトリック (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

 私はキリスト教に就て少しく話したい事がある。それはプロテスタントの無教会主義と、カトリックの教会主義との意見の相違である。無教会主義とは読んで字の如く『教会を必要としない、聖書一本で進むべきである』というに対し、教会主義は「キ リスト昇天後教会が先に出来、聖書は後から出版されたものであるから、教会は重要である」と言うのである。之に就て何れが是か非か、私の見解を述べさしてもらいたいと思う。此問題に対し孰れも理由があるが、私は霊的方面から解釈してみよう。

霊界に於ては、霊体一致の法則に従って、霊と物質の一致が原則である。即ち霊が 何等かの目的を遂行せんとする場合、物質を利用しなければならない事がある。例えば神仏を招聘(ショウヘイ)し、その御霊徳を授与されたい場合、出来るだけ清浄なる土地へ、教会又は神社堂宇を建立し、祭壇又は御神体、仏像等を安置し、香華(コウゲ)を手向け、御饌御酒(ミケミキ)を献供し恭しく礼拝祈願すべきで、それによって高貴なる神仏も降下又は鎮座ましますのである。そうして危急の場合は、何時如何なる場所にゐて祈願するとも、一瞬にして神仏の霊は身近に来り給ひ、御守護下されるのである。然し乍らプロテスタントの如く物質を介せず、空間に向って祈る場合、其誠は神霊に通じ、或程度の御加護のある事は間違いないが、相応の理によって、どうしても其御加護は薄い訳になるのである。之に就て霊と物質との関係をかいてみよう。

霊界に於ては神仏の霊は素より、人霊も、動物霊も、凡て何等かの物質に、神懸り、又は憑依するものである。例へばキリストは十字架へ、諸神諸仏は文字、御鏡(ミカガミ)、絵画、彫像等へ懸り給ひ、人霊は多く文字へ憑依され、動物霊は人体又は文字、稲荷なら狐の形状したもの、御札等へ、龍神は文字又は蛇形のもの、石塊(イシコロ) 等である。右の場合高級の神霊仏霊は、其作者の人格に関係するので、昔から名僧智識や名人等の絵画彫刻は貴重な物とされた訳である。

斯ういう事もある。外国の霊が日本へ渡来する場合、霊のみにて空間を渡来する事は出来ない。それは霊の往来する範囲は階級によって限定されてゐるからで、そこで 止むなく物質に憑依する、即ち共産主義の霊などは多くマルクスの著書に憑依して渡来し、その霊が各大学の講堂の壁面に並んでゐるそうで、その姿を霊視した人から私 は聞いた事がある。又中華民国の霊なども種々の品物に憑依して渡来するそうであ る。同様日本の霊も品物に憑依して海外へ渡航するのであるが、神仏の霊は高位になる程往来する範囲が広く、地球全体に及ぼし給うのは最高貴の神仏である。

以上の理によって、彼の偶像説の誤りである事を知るであろう。

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