人は神の子にしてまた罪の子なり (東方の光九号 昭和十一年一月一日)

時事論壇

近来「人は神の子である、否罪の子である」という論議が、相当行われているが、これは今始まった問題ではない、二千年もの前からの懸案であってそれが今日に到ってなお未(ま)だ解決付かないというだけの事ではあるが、これは左程むずかしい問題ではないので、簡単に解決せらるると思う、それは何かというに、凡ての物に表裏のある如く、人は神の子であって、また罪の子である。

 元来人間は神性と獣性と両方面を具有しているので、向上すれば神のごとくにもなり、堕落すれば獣類のごとくにもなるのであって、彼の死して護国の鬼とまつらるる如き人は、それは神性に迄向上したからである。

 動(やや)もすれば、獣性に堕ちんとする人間を、そうさせまいとするのが、宗教、教育、道徳の役目である。

 唯物主義は、往々人間を獣性にする傾(かたむ)きがある。唯心主義は、人間を神性に導く力がある。しかしこれも絶対とは言えない、反って逆の場合もある、例えば唯物主義にしても人類の福祉を増進する発明をなし、または発見をする人は、立派な神格者である、それに引換え、唯心主義者といえども、余りに物質を無視し、霊に偏よる結果は、一種の敗残者となり社会的に無為無用の人間となり、世を救うと言いつつ実は自己が親戚知人に救われなければ生存ができないという人があるが、これ等は一種の獣的堕落者であろう。

 これを要するに、如何様に説くといえども、結論は飽迄「人は神の子であってまた罪の子である」故に世の宗教家教育者は、罪の子を造らぬよう、また罪に堕した者といえども、神の子たらしむべく、努力しなければならないのである。

 これを今一層適切に言えば人間は一日の中にも一時間否一分間の中にも神の子となり、また罪の子にもなるのである、それは善を思い善を行わんとする時は、神の子であり、不正を思い、不善を行わんとする時は罪の子である、最近、某氏の誇らかに説く漫然と人は神の子仏の子であると断定するのは、半面の見方であって、未(まだ全真底に触れていない、謬(あやま)った説き方であるという事である。

 これを要するに、神の子または罪の子と、一方的に決定する処に誤謬を生ずるのであると思うのである。

タイトルとURLをコピーしました