HPタイトルを「岡田茂吉を学ぶ」に変更しました。(旧世界メシヤ教)

「救世(メシヤ)教とは何ぞや 」で岡田茂吉教祖は「この文を書くに当って、前以て断っておきたい事は、我がメシヤ教は純然たる宗教ではないのである。と言っても、一部には宗教も含まれてはいるが、全部でない事は勿論である。では、何故メシヤ教の名を附けたかというと、何しろ有史以来夢想だもしなかった処の劃期的救いの業である以上、止むを得ずそう附けたまでであって、」と述べていらっしゃり、岡田茂吉教祖の思想哲学を一宗教の教えに留めてはいけないという思いからタイトルを変更しました。

『天国の福音書』序文「救世(メシヤ)教とは何ぞや」 ➡️

「阿呆文学」 目下罪障消滅中 (光明世界二号 昭和十年三月四日)

    先づはそんじょ其処らに八宗九宗ある。信者を片端(カタッパシ) から此の阿呆、近頃検(シラ) べ上げて見りゃ恐れ入谷の鬼子母神。驚き桃の木山椒の木。摺古木棒を見たやうに、後戻りしては又進み、進むと思へば後戻り年が年中一所。行ったり来たりする如(ヨ) うな、信者がウヨウヨして御座る。そりゃ又阿呆め怪しからぬ。事申すなとお腹立。なさらず胸をおちつけて、阿呆の言ふ事一通り、聞いて下され本当に。判ったならばこんなにも、有難い信仰あったのかと、臍を噛まずにゃ居られない。一体全体信仰を、する目的は倖せを、求められるのか苦しみを、求められるのか先づ最初、そこ所(トコロ) からして判然と、決めて置かなきゃ相成らぬと、斯んなに判り切った事さへも、訊かなきゃならぬ程の仕儀、どの宗教の信者でも、本当に惨(ムゴ)い体たらく、そこで阿呆も世の為と、出鱈目混りに笑はせて、お気の毒だが内々で、打明話をする程に、とっくり聞いて下されと、前置代りに言ふので御座る。何処の誰方も押並べて、此の世智辛い世の中に、無事息災で暮すには、人間様の力では、心細くて仕様がない、せめて神様仏様に、縋ってゐれば気強いと、思ふは誰も同じ事。家内安全無病息災。商売繁昌の御利益をうんと戴き安楽に、世の中渡ってゆきたいと、願ふ心が信仰の、先づ始まりの紋切型。そこで愈々目を付けた、何々宗や何々教、オッカナ吃驚飛び込んで、信者名簿に載せられて、信者仲間におつきあい、顔を知られるやうになりゃ、大なり小なり命から、二番目の大切な佐渡の土、御奉納して一廉(カド)の、御信者さんに成りすまし、朝晩祝祠や御題目、奏げて間がありゃ親戚や、知人友人説き廻り、人類救済の大事業、地上天国甘露台、吾等が造ってみせるのだ。悪事災難そんなもの。信仰すれば屁でも無い。今に神政成就の世に、成ったら出世は請合と、棚牡丹所か夢の如(ヨ) う、途轍も無い法螺吹き立てて、夢中になって人様が、肯(キ) かうが肯くまいがそんな事、御かまひなしの猪式。御当人だけがいい気持で、あるから全くやりきれぬ 。一寸、好い事ありでもすると、無暗矢鱈に、御利益と、思って直に有難がり、遇ふ人毎に輪をかけて、針小棒大に吹聴し、今度は逆に不時災難、あれば何とマア結構な、大難を小難に祭り代へて、下すった大きな御利益と、感謝の涙に咽(ムセ)ぶといふ、手の付けられぬお芽出たさ。成程斯ういふ心境も、時にとっては良いけれど、程度を越えると困り者。うっかりすると信仰の悪酒にいつか酔払ひ。冷静批判も何処へやら、とどの詰りは信仰の、地獄に墜ちてゆくばかり。仍(ソコ)で段々深陥り、夢中になって宣伝や、御用をすればする程に、仕事や商売揚ったり。勤めの方は首と言ふ、破目になるのは知れた事。処が理屈はつけ様で、之も神様の御試練と、何でも都合のいい方へ、決めて愈々無茶苦茶宗。熱度は正に四十度以上。貯金が減らふが米櫃が、空にならふが何のその、天下国家の為ならば、仮令妻子が路頭に迷ひ、みんなが反対するとても、屁古垂(ヘコタ) れる様な信仰じゃないと、其鼻息の荒い事。之れが本当の正気の気違ひ。さア斯うなると弱り目に、祟り目病気や貧乏や、苦情交々至るといふ、洵に以て此の世乍らの生地獄。哀れなりける姿なり。茲で大抵の宗教は、チャンと用意をして御座る。
トリックと言ふ重宝な、道具を出して信仰を、グラツカせぬため巧い事、言ふて動きのとれぬやう、すれど悲しや人間の、智慧や眼玉じゃ判らない。それは大抵左の通り、あんたの家は先祖代々の、罪障がうんとあるほどに、夫を除るには今一層、馬力を掛けて信仰を、しなけりゃならぬ此所いらで、フラフラすると危ないぞ。一家滅びて了ふ等と、目の眩(マ) ひそうな威(オド)し文句、がんと言はれて御当人、最早斯うなりゃ絶体絶命、天下国家を救ふといふ、大きな仕事をする以上。チョッピリ位狡い事、するのは止むを得ないと云ふ、変な理屈をデッチあげ、手の届く丈金を借り、催促されても返さない。雨風凌ぎ安全に、住んでる家の家賃さへ、不払流の引延し、してゐて御当人は大威張り。其の言ふ事が振ってる、家賃借金払はぬは踏み倒すんでは決して無い、皆神様が人の手を、藉(カ) りてお金のある人の、罪穢(メグリ) を除って下さるといふ。洵に深いお恵みと、平気で言って馬耳東風。すました顔してゐるので御座る。中には善悪不二だとか、大乗だとか一寸聞くと、人民共の恐入り、そうな立派な御託宣。そうかと思ふと朝から晩迄、近所隣の迷惑も、お構ひなしにカチカチと、拍子木等を叩いたり、蟇蛙の如(ヨ) うな声を出し、お経や題目唸ったり、そうかと思ふと稲荷下しや、飯綱使ひや行者など、頼んで悪事や災難除け。罪障消滅お願ひし、汗水垂らして信心を、すれど薩張(サッパ) り病貧争。どうした訳か無くならず。処が茲でもトリックを、使はれ信仰が未(マ) だ足らない。
もっと信仰熱心に、しなけりゃ深い罪障は、とても消滅しないぞと、真向上段威嚇(オドカ) され、円太郎馬車の痩馬が、鞭に打たれて走るやう。信仰地獄に墜ちたまま、不知不識に何年も、何十年も続ける裡、彼の世とやらへ順繰りに、旅立するとは可哀想。親父の代は其り。伜の代になったとて、罪障消滅未(マ) だ出来ず、孫の代迄まだ出来ず。一体此の先何十年、何百年間経ったなら、罪障消滅出来るのか。出来ないのかは判らない。燈(アカリ) も杖も無い人が、暗夜をうろつく如くにて、やっと生てる情なさ。哀れ至極の次第なり。とは謂ふものの此の広い、世の中じゃもの何処か知らに、一軒位は罪障が、全く消滅してしまい、何年以来病貧争、絶えて無くなり日々に、楽しく嬉しく暮すとふ噂位は有りそうな、筈じゃないかと阿呆めが、目玉を皿の如(ヨ) うにして、幾ら方々探しても、薬にするほども見当らず。何処も同じ秋の暮「目下罪障消滅中」の貼札してある家計り。何と不思議な世の中と呆れ返るにゃ及ばない。斯ういふ様に間違った、娑婆故大慈の観音様が、救はにゃをけぬと天降り、先祖代々の罪穢(メグリ) 等、観音力で一祓(ヌグ)ひ。綺麗薩張り石川で、尻を洗ったやうにして、病貧争の全く無い、万民和楽の世の中に、成すって下さる有難さ。茲迄ダラダラ述べて来た、寝言の如(ヨ) うな阿呆めの、馬鹿話でも頭の良い、お方であったらピンと来て、はっと御眼が醒めませう。そういふお方は早速に、観音会へどしどしと、手をば繋いで御入会、なさいとお奨め申すので御座る。さすれば即心即仏の、御利益忽ち戴いて、娑婆即寂光浄土など、朝飯前の屁の河童。請合ひ申す次第で御座る。(光世二号 昭和十年三月四
日)

タイトルとURLをコピーしました