岡田茂吉 真の健康法/生と死/健康の種類『岡田先生療病術講義録』上巻(三)昭和11(1936)年7月 | 岡田茂吉を学ぶ

真の健康法/生と死/健康の種類『岡田先生療病術講義録』上巻(三)昭和11(1936)年7月

真の健康法

 元来、真の健康法というものは、霊体を曇らせない様にする事である。霊体を曇らせない様にするには、その根元である魂を曇らせない様にする事であります。

 ここに、一個の人間があるとする。この人が間違った事をする。秘密的な人に知られて悪いような事をすると良心が咎める。それだけでも魂は曇るのであります。

 又人を苦しめる様な事をすると気が咎めて自分自身が曇ると共に、苦しめられた人の想念が曇となって来るのであります。その適切な例があります。

 某大デパートの専務ですが、代々不思議に病気になったり早死したりする。これはどういう訳かというと、デパートの繁栄によって打撃を与えられている多数の小売商人が始終怨んでいる。多数のその怨みの想念が始終来る為であります。

 成金の没落なども同一の理であって、多数の嫉みの想念の為であります。又若くして名人になったり出世をしたりする芸術家などもよく早死しますが、そういう訳なんであります。

 右は全部という訳でもないが、名人でも徳のある人は例外の場合もあります。

 今度は反対に人を助けたり人が感謝する様な行をすると、その感謝の念は『光』となってその人に来るので、それによって曇はそれだけ解けるから、その人は常に健康でいつも朗かでおられるのであります。これに依てみても真の健康法とは、正しい想念と善徳を施す以外にはないのであります。

 その人の行が俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じないならば、心魂は常に爽快明朗であります。ですから、病気はある程度自分が作るのであって、それに依って苦しむものなのであります。

 祖先の罪穢といえども自分の行(や)り方によって消えるのであります。

生 と 死

 そもそも、死とは何ぞやと言えば、肉体が病気等の為ある程度毀損(きそん)され、又は大出血(全体量の三分の一――約七合以上)の結果、肉体が用をなさなくなるので、霊は肉体に留まる事が出来ず離脱するので、これを指して死というのであります。一概に病死といっても、それは直接病気そのものの為ではなく、ほとんど衰弱によるのであります。しかるに今日は衰弱によらないで死ぬ場合が非常に多くなって来ている。これはいかなる訳であるか、大いに研究の必要があるのであります。ただしかし、衰弱以外の死の原因としては心臓及び脳の故障であります。

 次に、死は大別して二種あります。それは自然死と不自然死であります。現在としては自然死はまことに稀であって、国勢調査によると八十歳以上の人は七百人に一人の割合であるという事で、実に驚くべきであります。

 他の動物即ち鳥獣等は自然死が多いに係わらず、ひとり人間のみにかくも不自然死が多いという事はいかなる訳でありましょうか。そこに何らかの重大原因がなくてはならないと思うのであります。

 そうして一方文化の進歩は何物をも解決せずには措かないという素晴しさに係わらず、ひとり人間の不自然死がいかに多くともどうする事も出来ないとして諦めている現在の文化は実に情ないと思うのであります。

 そうして今――不自然死を分けてみれば、病気及び変死であります。しかし変死は極僅かで、ほとんど病死である。しからば何故に病死が多いか、これについて我歴史を覧(み)ますと――

 畏多くも神武大帝以後十二代景行天皇様までは百歳以上の天寿を全うせられ給いし天皇様の相当あらせられた事であります。

 それ以後は御寿齢がずっと低くなり給うて居る。これはいかなる訳でありましょうか、人文発達の為かとも想われますが、しかし人文発達が、雲井(くもい)の上までさほど影響する訳がないと拝察するのであります。

 ここで、注目すべき事は、その頃から漢方医学の渡来であります。それはどういう意味になるかというと、日本人が薬を服む様になった事であります。

 徳川時代の有名な某漢方大家の言葉に『元来薬なるものはない』、『薬という物は皆毒である。病気は毒素であるから、毒を以て毒を制するという意味で薬を用いるのである』と言ったそうであるが、これは実に至言であって、吾々と同一意見であります。これによってみれば、漢医方渡来によって薬という毒を服む事を覚え、それが人体を弱らせ日本人の寿齢が短縮されたのではないかと想われるのであります。

 又今一つの例として彼の秦の始皇帝が、東方に蓬莱島があり、そこに住む人間は非常な長寿者という事である、何か神薬でも服んでいるのではないか、それを査べて来い、と臣の徐福に命じたという話は余りに有名であります。按(あん)ずるにそれは、その頃の日本には薬というものが無かったので長寿者が多かったが、支那は勿論、その前から薬があったので長寿者が少なかった故と、吾々は想像するのであります。

健康の種類

 健康の種類とは何であるか、私は仮に三種類に分けてみたのであります。

 まず第一種に属する人は、真の健康者であって滅多に病気には罹らない、偶々(たまたま)罹るとするも、放任しておけば簡単に治ってしまうという人などであります。それは浄化力が旺盛であるから病原である毒素が、多量に堆積しない内に排除作用が行われるからであります。

 しかし、こういう健康体の人は年々減少する様であります。

 第二種に属する人は、これは一番多いので普通健康体といわれる人であります。即ち風邪を引けば熱が出、喉が痛んで咳が出る。又、時々頭が痛むが直に治る。食物に中(あた)れば下痢をするという様な程度であります。

 この種の人はちょうど健康体と病弱との中間者であって、摂生法によっては健康体にもなれば弱体にもなるという程度であります。

 第三種に属する人は、普通病弱者といわれるのであって、絶えず薬餌に親しみつゝ衛生に注意はするが、健康体にもならず、といって重症にもならないという程度で、こういう人が非常に多くなっているのは事実であります。この種の弱体者が近来、青年男女に多くなった事と、又激増しつゝあるいわゆる弱体児童もこの第三種である事とは、実に寒心に堪えないのであります。そうしてこれらの病弱者は一人前の業務を執り得ないで、廃人的生活を送る者が多いのであって、社会国家へ対し一種の負担を与えて居る訳であります。

 右の三種の中、最も多数である第二種健康体の人を第一種にしなければならないのでありますが、不幸にしてどうも第三種の方へ落ちてゆく傾向のあるのはどうしたものでありましょうか。それについて吾々の研究を述べてみたいのであります。

 第二種健康者が偶々(たまたま)病気に罹った場合、発熱苦痛等を緩和すべき療法をするのですが、この苦痛緩和療法は、実は浄化作用を停止する訳になりますから、一時は快いが、結局は病気が長引きあるいは悪化する結果になるのであります。それが為、益々苦痛緩和療法を行うという訳で、ついに第三種弱体者に陥ちてしまうのでありますが、こうなったのはなかなか復活出来ないで、現状維持か又は不幸な結果になるのであります。

 この理によって、第一種健康者たらんとするには、どうしても浄化作用を充分徹底させなければならない。それは物質の力を借りないで自分自身の自然力即ち霊的療法で以て治す、それより外にないのであります。

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