岡田茂吉  黴菌に就て/痛みと熱/本療法の原理『岡田先生療病術講義録』上巻(三)昭和11(1936)年7月 | 岡田茂吉を学ぶ

 黴菌に就て/痛みと熱/本療法の原理『岡田先生療病術講義録』上巻(三)昭和11(1936)年7月

 黴菌に就て

 最近、某博士の実験報告によれば、今日まで黴菌は皮膚の毀損とか粘膜とかに限って侵入するといわれて、健康な皮膚面からは絶対侵入されないとしていたが、そうでなくてどこからでも侵入するという事を発表したのであります。右の実験が正確とすれば、黴菌侵入に対して絶対的予防は不可能という事になるので実に驚くべき事であります。でありますから結局私が前から言っている、黴菌が侵入しても犯されないという体質になるより外に安心は出来ないのであります。しからば、吾々の方の解釈では黴菌が侵入するとどうなるかというと、仮に赤痢なら赤痢菌が血液の中へ入るとする、すると非常な勢で繁殖してゆく。これは何故に繁殖してゆくかというと汚血があるからであって、その汚血中の汚素が黴菌の食物になるのでそれを食って繁殖するのであります。故に血液の濁りは黴菌の食物でありますから、黴菌が侵入してもその食物が無ければ餓死してしまう訳で、それで汚血の無い人は発病しなくて済むのであります。

 黴菌の食物にもいろんな種類がある。窒扶斯(チフス)菌を育てる食物もあり、赤痢菌を育てるのもあり、虎列刺(コレラ)菌の育つ食物もあるのであります。黴菌は食物を食いつゝ繁殖しつゝ死んでゆくものであって、黴菌にも強いのもあり弱いのもあり、短命もあり長命なのもあるので、そして死骸が種々のものになって排泄されるのであります。

 赤痢などは血が下りますが、あの血の中には黴菌の死骸と生きてるのと混合しているのであります。

 食物の有るだけ食い尽す結果は浄血になるから病菌は死滅する。それを医学では、抗毒素が出来るといい、それで治癒するのであります。

 人間の身体というものは、汚い物があると必ず排除される作用が起るものであります。ですから、鼻血だとか喀血だとかは何程出ても心配はない。これが出る程良いのであります。喀血など止めようとするが、これはちょうど、糞の出るのを止めようとするようなものであります。

 故に黴菌は、人間の血液の浄化作用の為に、存在している――掃除夫ともいってよいのであります。

 人間の生活力が旺んであって、黴菌に犯されないという事が理想的で、それには黴菌に掃除させる必要のない――浄血の持主になる事であります。

 次に、殺菌という事をいいますが、薬剤などによって人間の体の外部に有るものなら殺す事は出来るが、しかし、人間の体の中に居る菌を殺そうという事は絶対不可能でありましょう。もし、人体の一部が黴菌に犯されたとしても最早その時は黴菌は身体全部に行渉っているので、これを悉(ことごと)く殺菌しようとすれば全身あらゆる所へ菌が全滅する量の薬剤を入れなければならないが、それは不可能と思うのであります。

 例えば、内服薬や注射薬で肺結核菌を死滅させようとしても困難でありましょう。薬が一旦胃の中へ入り、各種の消化器能を経て肺臓へ働きかける頃は、その薬剤の成分は全く変化してしまうからであります。

 又、眼病にしろたとえ利く薬にしろその薬が種々の器能を通って眼の方へ働きかけるまでにはマルッキリその成分は変化してしまうであろう事は想像し得らるるのであります。

痛みと熱

 身体の一部に病気が起るとする。これは汚毒を排除しようとする為の症状で、それを溶解する為の熱である事は、充分お解りになったと思います。しからば、その熱は一体どこから出るのかというと――、もし身体自身から熱が出るとすれば、平常身体のどこかにその熱の貯蔵所がなくてはならぬはずで、その貯蔵所は常に火のように熱くなければならない。ところがそういう所は全然なく、病気になるとどこからか出て来る。実に不思議であります。しからば一体どこからどうして熱という素晴しい膿結溶解作用が出て来るかという事でありますが、この最も肝腎な事が今日まで更に判っていないのであります。

 三界の説明にもある通り『霊界は太陽熱』即ち火素が主となっております。この火素が発熱の素なのであります。即ち、熱を要する場合心臓は旺んにこの火素を吸収する。その吸収旺盛の為に鼓動が激しいのであります。又、心臓が火素を吸収せんとする時寒気がしますが、あれは病気治癒に要する熱を取る為に、身体全部への必要量の吸収を一時停止するからであります。

 次に、痛みというものは何であるか、吾々の方の解釈では毒素の排除作用が神経を刺戟するのであります。

 故に、排除しようとする活動力が旺盛であればある程――痛みが激しいのであります。ですから痛みがある程――治る工作が迅速に進んで居る証拠であります。故に、熱があり、痛みがあれば、その時こそ最も旺んに治りつゝあるのであります。

 随って、この場合解熱法を施しますと、熱という溶解作用が停止される。即ち治るべき作用を停止されるから一時苦痛は楽になるが病気の治癒は遅れる事になるのであります。

 しかし、衰弱している人でも、割合高熱のある場合もありますが、これは病気の方が強過ぎるのであります。又、病気があっても割合熱が出ないのは、その病気が割合軽い場合か、又は第一種健康体の人で、浄化力が特に旺盛だからであります。第一種の人は熱を必要としない程に浄化力が強盛であります。でありますから、あらゆる病気は苦痛でない限りは身体を活動させて差支えないのであります。それは安静にする程活力が弱まり、従って、発熱が減少するからであります。例えば、肺病の治療は、日本では近来――絶対安静療法を採って居りますが、これらは反対に運動をすれば活力が起って、浄化力は旺盛となり速く治るのであります。近来西洋でも、仕事をしながら治すという事を聞きましたが、私の説と同じでまことに喜ばしい訳であります。

 この故に、熱と痛みなるものは、治病工作上悪い意味ではないのであります。

本療法の原理

 そもそも、病気の本体は霊にある事は再三述べた通りでありますから『その霊の病気を治す』そうすれば体の病気は否でも応でも治るのであります。

 その訳を今一層悉(くわ)しく述べてみましょう。

 例えば、肉体の方の盲腸を除ったり、又は氷冷等で一時は良くなりますが、霊体の曇を払拭しない限り再発は免れないのであります。

 その場合、盲腸があれば前より重症であり、盲腸が無ければ膿は止むを得ずその隣接部に溜るので、それが腹膜炎又は癌の原因となるのであります。

 本療病術はこの霊体の曇を除るのであるから全く根本的療法であります。従って、霊の曇を除るのは霊でなくてはならないので、その霊の作用というのは、それは人体から放射する光で、この『光』以外には無いのであります。

 単に『光』といっても『眼に見えぬ光』即ち『霊光』であります。しかし絶対見えぬ事はない。――時々見る人はあります。

 その光は大体白色で、時には青味を帯びる事もあり、閃光的で、術者の指頭、掌又は額部等から重に放射されるのであります。

 この『霊光放射』によって曇を除る。それは全く神秘であります。

 で、吹くのは、光で溶解された曇を払拭する訳で、ちょうど地上の汚濁を太陽が照らして溶解し、それを風が吹き晴らすようなものであります。

 つまり擦(さす)るのは、曇を溶け易くする為で、光で縦横無尽に掻き乱すから曇の塊が軟化する理屈であります。

 しかしながら唯物主義者に向ってこういう霊的事象を認識させるのは、実に困難であります。それは根本において信仰が違うからであります。それは何であるかというと、吾々は事実の信仰者であり、彼らは論理の信仰者であるからであります。

 病気に対し、吾々は治ればいいので、ただそれだけであり、衛生とはそれを実行して健康になる、ただそれだけでいいと思うのであります。なぜなれば、一切は事実が主で、論理は事実への追随に過ぎないからであります。

 吾々は学理に合った療法で病気の治らない事実を、常に余りに多く見せつけられているが為にかような事を言うのかも知れないので、その点は諒せられたいのであります。

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