『文明の創造』科学篇「擬健康と真健康」(昭和二十七年) 

 今迄詳しくかいた如く、病気は浄化作用であり、医学は浄化作用停止を、治る方法と錯覚して来た意味は判ったであろう。之に就(つい)て今一層徹底的にかいてみるが、世間一般の人が健康そうにみえて、兎(と)も角働いている人の其殆どは毒素を保有していながら、強く固結している為、浄化作用が起らない迄である。従って、何時突発的に浄化が発生するか判らない状態におかれているので、何となく常に不安があるのは此為で、恰度(ちょうど)爆弾を抱いているようなものである。少し寒い思いすると、風邪を引きはしないかと心配し、伝染病が流行すると自分も罹りはしないかと案じ、一寸咳が出たり、身体が懈(だる)かったり、疲れ易いと結核の初期ではなかろうかと神経を悩まし、腹が痛いと盲腸炎か腹膜炎の初まりではないかと恐怖する。風邪が拗(こじ)れると結核を心配し熱が高くてゼイゼイいうと、肺炎を聯想(れんそう)する。一寸息が切れたり、動悸がしたりすると心臓病を懸念し、足が重いと脚気じゃないかと想う。眼が腫れボッタイとか、腰が重いと腎臓ではないかと疑う。女などは腰や下腹などが痛かったり、冷えたり、白帯下(こしけ)が下りたりすると、子宮が悪いのではないかと苦労し、子供が元気がないと大病が発(おこ)る前兆ではないかと心配する。というようにザットかいただけでも此位だから、今日の人間が如何に病気を恐れ、怯(おび)えているかは想像に余りある。

 そうして一度病気に罹れば医者に行き、薬を服(の)むという事は、常識となっているが、よくも之程迄に医学を信じさせられたものと感心せざるを得ないのである。とはいうものの私としても昔の自分を考えたら、人の事など言えた義理ではない。斯(こ)ういう事があった。確か三十歳前後の頃だと思うが、信州の山奥の或温泉場へ行った時の事だった。旅館に着くや否やイキナリ女中に向って「此温泉場にはお医者が居るか」と訊くと女中は「ハイ、一人居ります」私「普通の医者かそれとも学士か」女中「何でも此春大学を出たとかいう話です」それを聞いた私は、之なら二、三日位安心して滞在出来ると、腰を落着けたのである。処が其後世間には私と同じような人もあると開き私は変っていない事を知った訳である。又斯ういう事もあった。人間はいつ何時(なんどき)病気に罹るか分らないから、そういう場合夜が夜中でも電話一本で飛んで来て呉れるような親切なお医者さんを得たいと思っていた処、恰度そういうお医者さんが見付かったので、出来るだけ懇意にし、遂に親類同様となって了った。現在の私の妻の仲人は、其お医者さんであった位だから、如何に当時の私は、医学を信頼していたかが判るであろう。

 従って、今日一般人が医学を絶対のものと信じているのもよく判るのである。処が其医学なるものは、実は病気を治す処か、其反対である事を知った時の私は、如何に驚いた事であろう。然(しか)し之が真理であってみれば、信ずる外はないが、そんな訳で現代人が医学迷信に陥っているのも無理はないと思えるのである。忌憚なく言えば自分自身の体を弱らせ寿命を縮められ乍(なが)ら、医学は有難いものと思い込み、それに気がつかないのであるから何と情けない話ではないか。従って此迷信を打破する事こそ、救世の第一義であらねばならない。といっても之を一般人に分らせる事は実に容易ならぬ問題である。前述の如く医学迷信のコチコチになり切っている現代人であるから、実際を見聞しても、自分自身や近親者の難病が浄霊によって治ったとしても、直(ただち)に信じ得る人と、容易に信じられない人とがある。だが大抵な人は医学でも凡(あら)ゆる療法でも治らず、金は費(つか)うし、病気は益々悪化する一方で、遂に生命さえも危い結果、中には自殺を計る者でさえ、偶々(たまたま)浄霊の話を聞いても、容易に受入れられない程、医学迷信に陥っている現在である。然し絶対絶命の断末魔とて、茲に意を決し、疑い疑い浄霊を受けるが、其時の心理状態は最後に載せる報告にも沢山あるから、読めば分るであろう。

 以上は、現代人が如何に病気を恐れているかという事と、医学を如何に信頼しているかという事で、前者は全く医学では治らないからでよくある事だが、一寸風邪を引き、熱でも高いと之は大病の始まりではないかと案じるが、其半面之しきの風邪位が何だと打消そうとするが、肚の底では万一の心配も頭を擡(もた)げて来る、というのは誰しも経験する処であろう。之は全く医学そのものに、全服的信頼を措(お)けないからである。

 処が、本当に治る医学としたら、風邪や腹痛などは簡単に治るし、名の附くような病でも適確に診断がつき、其通りになるべきで、如何なる病気でも、之は何が原因で今迄の療法のどの点が間違っているか、どうすれば治るか、予後はどういう風になるか、命には別状ないかあるかも手に取るように判り、病人に告げると其言葉通りになるとしたら、誰しも医学に絶対の信頼を払い、病気の心配などは皆無となるのは勿論、病気は浄化作用で、体内の汚物が一掃され、より健康になる事が分る、としたら寧ろ楽しみになる位である。というのが真の医学である。では此様な夢にも等しい治療法がありやという事である。処が驚くべし之が已に実現して偉大なる効果を挙げつつある現在である。そうして吾々の方では病気とは言わない浄化という、何と気持のいい言葉ではあるまいか。然し事実もそうであるから言うのである。茲で標題の真健康と擬健康に就てかいてみるが、擬健康とは前述の如く、固結毒素があっても浄化が発生していない状態であり、真健康とは毒素が全くない為、発病しない状態である。然し後者のような人は恐らく一人もないであろうし、健康保険制度も其不安の為に出来たものであろう。

 右の如く現代人の殆(ほと)んどは擬似健康者であるから、大抵の人は何等かの持病を持っている。少し仕事をすると、直(じき)に頭痛や首肩が凝ったり、一寸運動が強いと息が切れたり、微熱が出たりする。又風邪を引き易く、一寸した食物でも中毒したり、腹が痛んだり下痢したりする。年に数回以上は病臥(びょうが)し、勤めを休み、何年に一度は入院するというような訳で自分自身の健康に確信が持てず、常にビクビクしている。酷(ひど)いのになると矢鱈(やたら)に手術をする。少し金持の中年の婦人などは、盲腸を除(と)り、乳癌の手術をし、卵巣も除(と)り、廃人同様な人も少なくない。又一般人でも瘭疽(ひょうそ)や脱疽(だっそ)で指を切ったり、片方の腎臓を剔出(てきしゅつ)したり、喘息で横隔膜の筋を切ったり、脳の切開、手足の切断や、近頃は結核の手術も流行している。というように虐(むご)い事を平気でやっている。処が医学は斯うするより外に方法がないから致し方がないが、今日の人間程哀れな者はあるまい。従って之程の文化の進歩発達も、其恩恵に浴する事が出来ず、病床に悩んでいる人も少なくないのである。右の如く病気の種を有っている擬健康を無毒者となし、真の健康者を  作り得るとしたら、之こそ真の医術であって、人類にとって空前の一大福音(ふくいん)であろう。

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