[日々雑感] 病気の原因は罪穢!?

  12月1日にアップした「昭和10年5月1日の御講和」をお読みいただきましたでしょうか?
 昨年ぐらいから、メシヤ様が「病気の原因は全て霊にある」とか、「病気の原因は罪穢だからね」とか奉仕者や資格者にお話しされた内容を見たり、聞いたりする機会が増えるので、今更、お恥ずかしい話ですが、私は六十数年も信仰の世界で生活してきて、霊的な病気は限られているとばかり思っていました。また、”罪穢”についてなどあまり深く考える事がありませんでした。

 しかし、”お詫び”が大事あるとここ数年良く聞かせていただくのですが、何故お詫びが大切なのか良く意味が分からず、長らく求めていました。昨年の初め頃に”お詫び”の大事さを体験する機会があり、なるほど・・・と。心からの”お詫び”が出来ないと、いつまでも同じ間違いを繰り返すのだと、ありがたくも実感する機会をいただきました(まだ、浅い理解ではあると思います)。

 そんな中、以前も読んだことがあるとは思うのですが、見過ごしていたのか、下記のみ教えに、はっきりと病気の原因は”罪穢”であると書かれているのを見て、今更、やっぱりそうなのかと思い知らされました。

いつもお話する、大光明世界建設、病貧争のない世界ということは、いったいどういうふうにすればできるかということになりますが、これについてはその根本があります。

 なんでも物事には根本があります。根本さえできれば、枝はほおっておいてもできてしまうのであります。

 しからば根本はなにかと言いますと、この世界は人間でなっておりますから、根本は人間であります。

 人間が立派に完全になればいい。その根本が立派になればいい。で、人間は霊と体、精神と身体とでなっている。それが本当に立ち直ればそれでいいんであります。

 すると、その根本は人間の精神と肉体、それを健全なものにすることであって、それをどうすればいいかが問題であります。

人間というものは、健康で働かしむべきものに神様からこしらえてある。決して病気などすべきものではない。病気するのはよくよく天理に外れたこと、間違ったことをしてるに違いない。

 それで現代は病気の人ばかりで、健康な人というものは珍しい。達者で健康ならば結構という。元来病気はあるべきものではない。

 病気が治らねば、世の中は直らぬ。

 よく医学を悪く言いますが、医学が悪いのではない。ありのまま言うと医学ではなかなか病気が治らぬ。治らぬために種々の方法をとって、機械とか薬がいるのであって、今日の医学の病名とか機械とか、薬の名をみんな覚えるのは不可能のことと思います。

 本当に治るものならば、たった一つでいいと思う。なんとなれば、病気の原因は一つですから、その病気の原因というのは罪穢であります。

 それで、その罪穢を除(と)る機械ができれば、病気はみんな治るのであります。治す方法は一つなのであります。その人の弱い所へ罪穢が溜まり病気になるのですから、その罪穢を除る薬なり、機械ができればよいのであります。それは、薬や機械では除れぬ。そういうものを作ったら治るかというと、ロボットならば科学で作ったもので治りますが、もっともっと人間というものは、想像もつかぬ霊妙なものでありますから、どうしても、人間の肉体の問題は科学より深い神秘的なもので解決せねばならぬのであります。

 ところが、その機械ができた。それを観音会で発表したんであります。すなわち罪穢を除る機械であります。それは人間を使わねばできない。

 人間は神が生まされた。神の代わりができるものなんであります。人間を使って人間の罪穢を除るのであります。

御講話 昭和10年5月1日

 世界救世教に何十年も籍をおき、学びもそれなりにさせてもらっていたつもりですが、
”病気の原因が罪穢”であるという話はあまり覚えがありません。
逆に、上記のお話の後に話されている、以下のような御教えは、何度も目にさせていただきました。

 「世界人類を救う、大光明世界建設のために力をつくすという高い意志がなくてはならぬ。そういう高い意志がないと間違いが起るのであります。そういう間違いない意志、人格的にみて間違いないとみれば、分院の開設を許すことになるんで、だんだんそういう人を増やして行くんであります。

 そして、「岡田式神霊指圧療法」はとてもよく治る。料金も安く短時日で治るという信用を得、また非常に親切で真剣に治すという、あらゆることの信用を得なければならぬのであります。

 そうすれば、観音会へ入る信者がたくさんできる。そうして、入った人は病貧争がなくなるというふうになる。結局、各町内に一カ所ずつ指圧療法の分院ができるようになり

(中略)

いずれ大きな本部もでき、日本医学の病院も造りますが、そのときは西洋医学も、漢方医学も、いくらか取り入れるかもしれません

御講話 昭和10年5月1日

 上記のような御教えを拠り所に長年所属していた教団組織では”分院”がたくさん生まれ、“療院”が作られていくのですが、拠り所の教えとするならば、本当は教えの全文を出すべきでは無かったのではなかったのか?。一番最初に抜粋させていただいたような内容の御教えを知らずに、分院とか療院建設とか言われても、肝心のメシヤ様の想いは信者さんに理解されることもなく、教団から出された独自の経綸を信奉してしまう事になっていたのではと思います。どうして、教団は御教えを切り取って出され、信者さんに療院建設など積極的に進めようとされたのか、私には疑問です。また、専従者や信者さんが教えの全文を知っていたならば、分院も療院ももっと違うものになっていたのではないかなと残念に思います。皆さんはどう思われますでしょうか・・・?

 そして、最初にお詫びについて書かせていただきましたが、病気の原因が”罪穢”であるならば、まずはお詫びは必然なのではないだろうか・・・?

 たまたま、小さなお子さんをお持ちのお母さんがたに、どうしたら薬を使わないで子育てができるのか私に話を聞いてみたいと言われ、家に何人かの若いママさんが来てくださいました。私も初めてのことで、何を話したら良いのか良くわからず、1回目は終わったのですが、やはり、霊と体の事や経綸の事を話さなくてはいけないと思い再度来て頂きました。それが自分の子育ての頃を振り返る良い機会となりました。

 私は三人の子供がいるのですが、子育ての頃、子供が熱が出たりしても、ほとんど数時間で熱が下がり、次の日まで熱を持ち越すということが殆どありませんでした。そうして、人に話させていただくにあたり、よく思い出してみると、子供が熱を出したり何かあると、心配で心配で自分のどこか間違っていることがないか考え、反省しお詫びして玉串をお上げして、御祈願していた事を思い出しました。そういうアドバイスをして下さる方が身近にいらしたので、すぐ、ご守護いただく事ができたのだなーと、本当に有り難い事だったのだなと40年近くもたって思い起こし、気付きました。

 昔の教団時代は、まだまだ、浄化が起こったら、先ず我が身を省みることから浄化に向き合っていく姿勢が大事にされていたのだろうなと思います。勿論、今でも変わらないよと言う方も沢山いらっしゃると思いますが、私の場合は子供が大きくなるにつれて傲慢になり、自分自身にお詫びの精神がますます薄れて来ていたようで、全くお恥ずかしい限りです。

 

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