阿呆文学 東西愈々入れ替り (光明世界三号 昭和十年五月二十一日)

      今度此度(このたび)、此阿呆、ありとあらゆる日本に、在る宗教を検(しら)べたら、コラ又吃驚仰天(びっくりぎょうてん)じゃ、大なり小なり宗教と、名の付くものはどれもこれも、西で生れたものばかり、基督(キリスト)教や仏教や、回々(フイフイ)教や道学教、まった近くはお互が、産湯(うぶゆ) を使った日本でさえ、悉(みな)箱根から西の方、出雲の国や丹波市、岡山大阪京都在、等から生れたもの許(ばか)り。

      開闢以来の昔から、日輪様とお月様は、東の空からお出ましに、なっては西の方に向き、お照しなされてグルリッと、一廻りしては東から、西を照して又循(めぐ)る、と言う事を繰返す、そんな事は三つ子でも、知っているのは当然(あたりまえ) 、此忙しいのにべらぼうな、判り切ったる寝言をば、聞かせる等とは怪しからぬと、怒り給わず例に依り、阿呆の言う事味わえば、満更(まんざら)悪くもありますめえと、一寸阿呆も自惚(うぬぼ) れて、ぼつぼつ書いてみようで御座る。

      開闢以来タッタ一日、西から月日が出た例(ため)し、あるを聞いた事がない。すると月日(つきひ)の御(み) 光は、東の方から西の方を照してゆくのは大宇宙の、難しく言や法則と、やら申すので御座る、此法則から推して行きゃ、真(まこと)の光の宗教は、東から出て西の方を、照してゆくのが法則で、あるのに今の今迄は、西から東を照すという、法則に外れた逆様(さかさま)な、教えや救いである為に、成程世界人類は、いくら信仰したとても有難がっても幸福や、真の平和は得られない。とうとう惨(むご)い今の状(さま)、九分九厘迄行詰り、どうにも斯うにもならぬ時、待ちに待ったる東方の、光は東方日本国、其名も東の京(みやこ) と言う。大東京の御膝元で、オギャアと今年の元旦に、産声挙げたは東方の、光の本の観音会、東に生れた宗教は、最初であって最後であり、之が唯一の救世教、之から天の日月と、歩調を揃えて東から、西へ西へと照しゆき、日本は愚か唐天竺(からてんじく)、大千世界の果までも、照して救う、すばらしい、万教帰一の二度とない。世界救済の大神業、等と大きな法螺(ほら)じゃない、三千世界の救い主、観音様が阿呆めの、指とペンとを使われて、アラアラかくの通りで御座る。
                              (明烏阿呆)

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