*法難、宗教改革 御教え集2号 昭和二十六年九月十八日

それから、今『文明の創造』は「宗教篇」を書いているんですが、段々段々宗教に入り、深い所にいく訳です。

(御論文「唯物医学と宗教医学」朗読のあとの御教え)

こう言う具合に色々説いていくんですが、興味があって、知らず知らず深い所が分かっていくんです。深い所に入っていくと、中々面白いんです。仏教から神様に入り、そう言う関係を説いていく。そう言った宗教的な色々な事はすっかり分かる事になる。今迄の宗教と言うのは、曖昧模糊(あいまいもこ)だったんです。それは夜の世界の事を説くものだから仕方がない。本当に説いたら、どうしても、仕事をする気にならなくなる。そこで、うまくぼかして、無理な欲望など抱かせない。その為に苦しみが生まれる。それを助ける為にお釈迦さんは、ぼかして、全然諦めさせない様な、諦めさせる様な事を言った。仏滅後五六七の世が来ると言うのは、諦めさせない様にですね。そう言う訳だから、後世の学者やそう言う人達は自分流の考えで、いやに七難(しちむずか)しくして、非常に神秘な尊いものの様に作ったんですね。だから、本当の事が分からないからして、色んな説ができ、色んな宗派ができた。結局、迷いをなくする為に一生懸命やるのが、迷いを増やしている。そうでしょう、肝腎な事を説いてなかった。また説いてはいけなかったんですね。キリスト教なんか、『バイブル』などは良いですが、徹底しない。「汝何をするな」「汝何をせよ」と言うが、どうしてそれをしてはいけないと言う事を説いてない。丸飲みにすれば良いが、そうはいかない。段々文化が進歩して来ると、理屈をつける様になる。合理性を持って来る。そうすると、あんな宗教と言うのは空みたいなものになる。そうすると、物質的に進歩した結果、悪の発生になる。悪の発生の為に世の中が悪くなる。人間が苦しむ。だから結局、今迄の世の中は、不徹底極まる、曖昧模糊としたものです。だから、そう言うものと諦めるより仕方がない。ところが、今度は昼間の世界になるから、はっきり分かって来るからして、迷いがないばかりか、人間の思う通りになる。何が思う通りになるかと言うと、健康です。人間と言うものは、病気と言うものはないものだと思えなかった。どんなに偉い人でも、何時病気にかかるか分からない。これだけは取れない。事実偉い人になっても病気で死ぬからね。お釈迦さんでも病気で死んだ。そうしてみると、本当に安心ができない。処がメシヤ教では、病気の心配がなくなるんですからね。私の娘が結婚した婿になるのが、この間会社で健康診断で、結核の初期だと言うんです。今来てますが、そんなのはすぐ治るからすぐ来いと言って、何も心配ない。非常に喜んでいる。これが世間だと大変だ。子供がありますから、染(うつ)ると大変だと、隔離されて、絶対安静で、どんな事になるか判らない。処がこっちは平気ですからね。そんなものは風邪引いた位です。この安心は今迄にないんですからね。そこで、これで五六七の世の一番肝腎な根本ができた訳です。人間が地上天国の資格者になっているんです。結局、何時も言う通り、病気の心配、戦争がなくなる。段々進んでいくと戦争の原因を書きますが、病気と戦争がなくなれば、それでいいんです。あとは全て解決する。今度の講和会議など、各国が色々――日本もそうですが――色んな国際法だとか、連盟だとか色々作ってます。国家も――社会組織、経済組織と作りますが、結構なんです。良い組織なんです。ところが、やる人間が駄目なんです。だから悪くしてしまう。良い人間が法律を運用すれば――法律なんか要らない位のものです。これを悪い人間が使うと、法律を逃れるとか、ひっかかるとかとなる。だから、法律と言うものは、反って悪の働きをする事になる。今度の『新しき暴力』の付録にも書いてあるが、悪を取締る御本人が悪をしようと言うんです。だから被告は威張ってますが、警察官なんかビクビクしてます。この間の時なんか――弁護人も勇気がないんです。勇気がないと言うより――悪いけれど――心の底に確たるものを握ってない。だから、おっかなびっくりしながら役人に向かっている。だから私は立ってウンと――叱ってやったんです。先も気の強い奴だと思ったらしいですがね。こっちは正当なんですからね。私を調べた警察官ですが、検事から招ばれて証人になっていたが、嘘っ八(ぱち)です。「あなたが言っているのは殆んど偽証だ」「そんな事ない」「そんな事ないと言っても、全然嘘だ。偽証と言う事を取ったら、私の方は何も罪はないじゃないか」馬鹿々々しいと言ったらない。「それじゃ水掛け論だから止すが、私がせめられて、ひっくり返った事が二度あるが知っているだろう」「知らない」「もう一人の人がおぶって行くのを見たでしよう」「いや」「気の毒そうな顔して見ていただろう」「いやそんな事はない」浅ましいものです。罪をさばく御本人が、嘘吐いたり、忘れたと言っては問題にならない。ついに「あなたの様な人間に話しても、しょうがないから、あなたが本当になったら話をしよう」と言ってやった。何しろ水掛け論をやっているんですからね。「私は水掛け論は嫌だからこれで止す」と言った。裁判長は笑っていました。すると検事の先生「裁判長、笑うと言うのは止して貰いたい」と言うんです。笑いたくて笑うんじゃない。笑わざるを得ないんです。だから笑わせる奴が悪いんです。と言うのは、知れきった馬鹿々々しい嘘を言うからで、憎むどころじゃない。それを通り越している。裁判所の神聖を穢すのは先生達です。こっちは笑わせられるんですからね。馬鹿々々しいものですね。ちょうど、今迄の世の中がそう言う風になってますね。

 「寸鉄」ですがね。結局同じ様な事を言う様な事になるので、「寸鉄」の方は、何か問題があるとか、気がついた時に書く様にして、今迄の様に、始終無理に書く事は止そうと思う。今日はたった一つありますが、そう言う様な意味で、あんまり今迄の様にできないかも知れませんが、そのつもりで。

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