大光明世界の建設 「膏薬張の救い」(病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何? 昭和十年九月十五日)

  病気になっても、医者にかかれない人や貧乏で食えない人、可哀相な老人、孤児等を救う機関は、益々、社会的に完備してゆく、救世軍は、慈善鍋で貧民を喜ばせる、夫等(それら)の事は、確に良い事だ、無いよりも在った方が、どれ程いいか判らない。

 然し、夫等不幸な人達が、後から後から手の廻らない程出来るという、其根元の浄化の方がヨリ重大な事ではなからうか。

 其処に宗教の使命がある。警官の数は、人口の増加率よりも増えるそうだ。裁判官は迚(とて)も手が足りないので、出来る丈早期判決を下す方針にしたという事だ。監獄も、気狂(きちがい)病院も、どんどん建て増してゆく。是等も社会情勢に対する、止むを得ない施設ではあるが、名誉ではない。

 こういう社会の事象を観る時、宗教家として、安閑としては居られない筈だ、それら社会悪の真因は、何処に在るのか一切の事は原因が在って、結果が在るのだ、しかし原因よりも、その結果を救う事が、社会事業や、警察や裁判所の専門的仕事である。凡ゆる罪悪と不幸の原因は何か。それは人間の魂である。其魂を浄化してこそ、社会は良くなるのである。宗教としての使命も、其処(そこ)にある。これこそ他の何者も企及(ききゅう)し難い権威であり、それが宗教の貴い存在意義である。之を他所(よそ)にして、宗教の意義は無いのだ。

 とはいうが、今日の宗教家も、相当活動はしている。説教所、教会、寺院、布教師、教誨師、説教師など、幾十万か、数え切れない程ある。それだのに、社会悪が、愈々益々増えるという事は不思議な話だ、教化する者の、努力が足りないのか、怠けているのか、否、なかなかそうではない。彼等は、教壇に、路傍に、個人に、声を嗄(か)らして努力している。それだのに、期待する結果が得られないという事は、其処に、何かなくてはならない。

 それらの難問を、悉く解いて了う、力の宗教が、我観音会で観音運動である。

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