大光明世界の建設 「現当利益」(病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何? 昭和十年九月十五日)

 この現当利益という事を、低級信仰として解釈する多くの人があるが、それは大いに誤っている。その点を述べてみよう。

 世に、現当利益が、心から嫌いだという人は、実は一人もあるまい、如(も) し、有るとしたら、その人は狂人である。病気が治るのは、嫌いだという人はあるまい。金が欲しくないと拒絶する人も、一人もあるまい。俺は、不幸が好きで、幸福は 真平(まっぴら)だと逃げる人は、恐らくこの娑婆には、絶対にない事を保証する。

 宗教界において、錚々(そうそう)たる人達が、口を開けば現当利益は低級である。須(すべか) らく、病気や不幸に超越して、心の安心立命を得るのが、真の信仰であると言うのである。私は言う、病気で悩み、不幸災厄に囲まれながらなお安心立命のできる人が、世に有るとしたら、恐らく、六千万人中十人とはあるまい。そんな理論だけの信仰でもって、大衆を救えるはずは、断じてない。大衆の救えない、一部少数の人より、救えない宗教であるならば、それは、無用の存在でしかない。

現当利益を不可とする宗教は、実は、現当利益を与えるだけの、力即ち奇跡がない為の詭弁(きべん) である。それは、その宗教にもはや、生命がなくなっている証拠である。そういう宗教に限って、社会事業によって、漸く、その存在を、理由づけている有様である。いかなる宗教といえども、その創(はじ)めは、相当の現当利益が有ったであろう事は、史実も物語っているし、またそうでなかったなら、その時已に滅びているはずである。ではなぜに、開教時と異って今日は、その力がなくなったかというと、その真相はこうなのだ。何れの開祖も真面目で、真剣で、神仏の代行者として恥しからぬ人達ではあったが、惜(おし)い哉、世は夜の時代であったが為、年を経るに従い、邪神の為に、力をそがれて終った為であって、ついに、今日見るごとき生命のない状態となったのである。

 また現世においての悩みは、免れ得られないが、未来は天国浄土に救われると言うのが、彼等の説き方である。これも可笑しな話である。現在を救えないものが、何で未来を救う事ができようか、未来というものは、死んでから先の、幽界であるから、万一、天国浄土へ行けなかったとしても、幽冥所を異にしては、苦情も持って来られないから、誠に説く方にとっては、安全至極の説き方である。

 本来、現幽は一致しているのが実相である。彼等は、そんな事には無知である。で、幽界は、現界の延長であるから、現界において、無病息災にして、幸福の生涯を終った者は、そのまま、極楽浄土へ行くのであるが、病患で苦しみつつ死んだ者は、その苦しみがそのまま、継続するのであるから、無論、地獄界へ行くのである。病気やその他の不幸で苦しみつつも、教誨師などの言(ことば) を信じて天国へ救われると、思い込んで居る人がよくあるが、実に可哀相な者である。顕幽神(けんゆうしん)三界の実相を、知らない宗教家が、独断的に言う説こそは、実に危険千万であって、その罪は、軽からぬ事である。

 併も釈尊にしろ、キリストや日蓮にしろ明確に、天国、極楽、地獄の真相を開示しているに係わらず末世の僧侶牧師が、否定するにおいては、その開祖に対して不徳の罪の大なるものである。

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