*世の中の一切はねじれちゃった 御教え集3号 昭和二十六年十月五日⑥

(御論文「天国的宗教と地獄的宗教」のあとの御教え)【注 栄光新聞一二七号】

 今読んだ通り一番肝腎な事で、つまり今迄の世の中は苦しむ事を良いとして来たんですね。その結果人類は苦しみを楽しむと言う事になった。色んな宗教や精神の修養場と言うものの説き方は、苦しみを楽しめと言う様に説いてある。病気で苦しみながら有難い有難いと言う宗教がありますからね。あれは苦しみを楽しむと言うんで、大変な間違いですね。だから世の中の一切はねじれちゃった。素直に有りのままと言う事はなくなって、おかしくひねくれちゃったんですね。そこで皆有りのままと言う訳ですね。だから神様と言うのは、卒直に感じたまま、見たまま――それが本当の神様の御心なんです。それを人間が色々にひねくれて、楽しく楽に行ける世の中を、わざわざヘンテコに――苦しむ様につくっちゃった。だから、信仰を一生懸命しながら段々貧乏になったり、病人が絶えなかったりする。だから、言わばメシヤ教は宗教改革も一つの仕事になっているんですね。医学の改革やら、宗教の改革、農業も改革し、色んなものを改革するんですね。だから、それが判りさえすれば、目が醒めた様に有難くなるんですがね。何しろ長い間ひねくれた文化が続いて来たんで、分からせるのに骨が折れる。安いものを食っていた者に、たまたま美味いものを食わせると、変に思ったりする。こう言ううまいものがあると言っても、そんなものがあるものかと言うんだから始末が悪い。

(御論文「医学迷信」のあとの御教)【注 栄光新聞一二八号】

こう言う事は誰方も始終あるでしょうからね。しかし之だからやり甲斐があるんですよ。と言うのは、もしかお医者の方で片っ端から治したら、こっちに来る訳がないし、また簡単に神様の方がそういく訳がない。こう言う人達を済度(さいど)して判らせると言うところに我々の仕事があるんだから、あんまり簡単にいき過ぎても、張り合いがないし、こう言うのでも厄介だし、之程皆んな分からなくなっているから、大いに救うべき必要がある訳だから、ちょっと考えても残念で我慢ができないのですがね。また良く考えれば、こうあればある程――判らない程救うべき必要が非常に強い訳ですね。

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