『病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何?』 観音運動とその宣言 (昭和十年九月十五日)

 東洋文明は已に没落し、西洋文明は全く行詰っている今日ーー世界は、如何なる方向に転換せんとするや、之が全人類の根本的悩みである。然し「此姿こそ」今やーー新しく生れんとする真神文明の産みの悩みのそれである。次々起る戦争、革命、事件、夫等は陣痛の苦悩でしかないのである。然らば、新真文明とは何ぞや、雌伏三千年ーー万世一系の皇儲(こうちよ)の国、我日本からーー今や、呱々(ここ)の声を揚げんとしているそれである。視よ! 六十余年間に西洋文化を、一千有余年間に支那文化を咀嚼(そしゃく)し て、余す所なき斯国は、今や! 恒天(こうてん)の使命に飜然(ほんぜん)と目覚めんとしつつある。 否、進んで全世界を目覚めしめん自覚の下に、動き始めたのである。皇軍の偉容を、 産業の躍進を、其他芸術に、教育に、スポーツに、凡ゆるものを視よ! 一旦摂取せられー醇化(じゅんか)せられて、茲に再び、新鮮なる文化形体となって、外に向って迸出(へいしゅつ)せずんば熄(や)まざるの概(がい)を示している。而も斯国の大調和の伝統精神は、赤化も終に旗を捲くの余儀なきに到り、フワッショも施すに術(すべ)なし、宛(あたか) もーー大海原が各川(かくせん)より流入する汚濁を呑んで、悠々乎(こ)たるの状其儘(そのまま)である。

  此秋(とき)に当って、斯国の民が、唯一の生命を託すべき医術其ものは、実にーー二千有余年以前の支那人の創成せるものと、数百年以前にーー猶太(ゆだや)人の科学者が創始せるものとの、二種のみである。此両者の医法に依って、我等日本人の健康と齢(よわい) は、左右されている現状である。昔人(せきじん)は曰(い)う、人間僅か五十年と、然しーー悲しい哉、昔人が曰った僅か五十年すらに、此医学は届かせて呉れない事を統計は示している。年々壮丁の体格低下と、嬰児死亡率の驚くべき高率を如何にするか、諸君、今日 ーー知人の家庭を訪問して、一人の病者無き家が何軒あるであろうか?  その大方は、一人や二人病床に臥し、又は病院への入院者の無い家は稀(まれ)だと言っていい位である。 今日の日本人の体格を厳密に診断して、完全なる健康体は、三分の一は無いであろう事実に気付かなければならない。

  然るに飜って、我三千年以前の国史を観(み)よ、其処にーー驚くべき事実を発見する。神武天皇の御寿(おんことぶき)を初めとし、十数代の帝(みかど) の御寿のーー大方百歳以上に渉らせらるる御事である。武内宿禰(たけのうちすくね)の三百六つは言わずもがな、而して其頃、現代の如(よう)な医学や、生理衛生は全然無かったのである。人或(あるい)は曰わんーー今日の文化生活と、 古代の生活とは比較にはならないではないかと、それも一応は尤もであるーーが、儻 (も)し、今日の文化生活の雰囲気に在って、尚百歳の寿を保つ事が可能としたならば 如何(どう)であろうーー人類にとって之程驚異すべき事があろうか、将(まさ)に一大奇蹟である。大事件である。然し、私は断言する。それは正に可能である事を。

  茲に先ず、現代医学を検討してみよう。西洋医学は、西暦一八五五年に彼のフィルヒョウが提唱した、細胞病理学を基礎となし、唯物主義の堅塁(けんるい)を守り、微に入り細に渉って、今尚、研究を続けつつあるのである。故に、外観上ーー如何にも進歩発達せるが如きも、惜しい哉(かな)、枝葉末節に拘泥し、学理に偏して、実際的治病効果の挙がらない事、十年一日の如しである。日々に新薬が現われるという事は、前の薬剤の効果のない事を、実証して余りある。随而ーー今日、医界の識見ある士は、西洋医学の行詰りに歎声(たんせい)を漏し、有名なる某大家の如きは、公開の席上に於て、医学では 病気は治癒しないものであると、明言して憚(はばか)らない事実を、私は確聞している。

是に於てか、世人は既に捨て去って一顧だもしなかった、漢方医法を復活するの止むなきに至ったのである。

絢爛たる文化を誇り、西洋医学の進歩に、随喜渇仰して来た現代人も、其医病力が、他の科学的産物と其効果に於て、余りにも隔絶せる事を知って、二千余年以前の支那人の所産に係り、幕末期頃までを、僅(わず)かに余喘(よぜん)を保って来た草根木皮療法に再びーー貴重なる生命を委ねるの余儀なきに立到ったのである。一旦墓穴に埋めた形骸を、復び掘り出だすの悲惨事と等しい業である。

  其筋の峻厳なる取締りに拘(かか)わらず、電気、温灸、鍼灸(しんきゅう) 、指圧、掌、或は何、或は何々療法という、実に千差万別な民間療法が、簇出(そうしゅつ)しつつある現状は、何を物語っているのであろう乎(か)、又邪教視せられ、迷信扱いされつつも、尚駸々(しんしん)として発展しつつあるー-新興宗教の実状を、其処に何等か理由がなくてはならない筈だ。一概に、盲目的に、新興宗教は総て邪教であり、迷信であると断定して了う事は、因襲的感情に支配されての独断だと言われても、弁明は出来ないであろう。何となれば、卿等(けいら) が尊信歇(や)まない、既成宗教と雖も、其創(はじ)めは、パリサイ人 から、吾々のそれと等しく新興宗教として軽侮され、邪宗迷信として、凡ゆる迫害を享けた其事実である。それは余りにも雄弁に、法難史が物語っているではないか 。

  考えてもみるがいい、若し現代医学や既成宗教によって、適確に治病効果を奏するならば、何を好んで不安なる民間療法の門を潜(くぐ)り、又は親戚知人等の侮蔑と漫罵(まんば)を浴び、周囲の迫害に抗してまでも、新興宗教へ趨(はし)るであろうか、其処に止むにやまれぬ、あるものがあるからである。併(しか)も夫等(それら)の人士は、意外にも、老後の安楽や死後の浄土を希う爺婆(じじばば)よりも、寧(むし)ろ新教育を受けた青年や、インテリ層が多数を占めている皮肉である。勿論、民間療法や新宗教に依って、医師の見放した重患が奇効を奏した実例を、尠(すくな)からず知ったが為である事は言うまでもない 。

故に、私は言い度(た)いのである。現代医学に携わるの士は、暫時ーー民間療法から眼を逸(そ)らし、只管(ひたすら)治病専一の医術を研究されん事である。其結果ーー真に効果ある、治る医学を創見されて、普(あまね)く世人を救ったなら、民間療法は人の手を藉(か)らずして、忽ち淘汰されて了う事は、を睹(み)るよりも瞭かである 。

一体、世間多数の病患者が、新興宗教に、民間療法に趨(はし)るという事は、がそうさせたかと言いたいのである。

日々、我々の許へ愬(うった)えて来る患者の言う事を、聴いて貰い度(た)い、彼等は一 様に言うのである。最初病気に罹るや、例外なく、医師又は病院に行くのである。旬日(じゅんじつ)にして治ったものは幸いであるが、不幸にして長びくとなると、医薬費、入院料等が(かさむ)ばかりでなく、職業にも就けないという拍車が加わるから、長年汗で貯めた貯金は使い果し、親戚知人から借りる丈借り尽しても尚病治らざるのみか、病長びけば 、衰弱も加わりー悪化するのが当然である 。

斯うなる以上、最早ー-医療を受けたとて、何時治るか見当は付かぬ、併も経済の行詰りは、医療継続を不可能ならしめ、進退爰(ここ)に谷(きわま) るという、その状態は涙なくしては聴き得られないものがある 。

其際ー此人達の冷え切った心を温めて呉れるものは、何と言っても、新興宗教の信者達であろう。それは、新興宗教の常として、教線を拡げる熱があるからである。 此熱と誠によって、又神の霊護によって難病が治るというーー奇瑞(きずい)も有り得る筈である 。天理教等の発展も、それを実証している。

次に民間療法に就て、詳しく言い度いが、医師法に触れる懼(おそ)れがあるから言えないが、差支えない範囲丈を言わして貰い度い、それは罹病後、吾々に直ちに来る者は であって、大多数は医療をへ求める。不幸にして快(よ)くならないーー終に種々の療法をやる。それでも治らないので、来るのだからー夫等患者を治すのには、二倍も三倍もの治病力を要する訳である。然るに、其成績たるやーー六七十%以上の治病率を挙げている。之を読む人は、信じ難いであろうが、事実だから致方がない 。故にーー疑う人があったら、何時でも実証するに吝(やぶさ)かでないのである 。

  医学の終極点は、人類から病気を無くする事であるのは言う迄もない、それが為のーー基礎医学も病理構成も、動物試験も細菌学も勿論必要であろう。然し、それ等基礎的研究のみにーー偏し過ぎはしないだろう乎(か)、例えば、今家を建築しようとする。その基礎工事は、基礎工事其ものが目的ではなくて、地上何十尺高く「偉容を現わす 建築」其ものである。言わば、建築の為のそれである。無論重大な役目ではあるが、 基礎工事が長過ぎて、家が何時になっても建たなくては、用を為さない 。専門家が、顕微鏡下に細菌の活動を凝視しているその一方に於ては、幾万の病者 は呻吟しつつ、治る医学を、如何に渇望している事であろう乎、故にーー吾々は誰でもいい、一日も早く、人類から病気を、無くして呉れればいい、それ丈である 。

  一切は時期である。時期は絶対者である。之に抗する事は神にも出来まい、そ れは、西山(せいざん)に舂(うすず) く太陽を、東の空に呼び戻す事の出来ないと同じ様に 。

  我大日本帝国が、世界の地平線上に其雄姿を現わしかけたのも、矢張時期である 。

  日本に、日本人の手によって、日本人の頭脳によっての医術が生れたとしても、 不思議はない、唯物主義を本質とする西洋医学が、絶対とされていたとしても、それ以上の医術が現われないと、決める事は出来ない、如何なる学理も、事実の前には無力である。新しいものは、古いものを清算する。それは、新しいものが優っているか らである 。

  人類から病気が無くなり、延命するという事は、驚くべき事である。斯んな事を言えば、気狂にされて了うであろう事は私も識っている。コペルニクスの地動説も、ニュートンの引力説も、ダーウィンの進化論も、其初めは、そうであった如(よ)うに 。

  日本人が、世界最優秀民族である事は、漸くその全鱗を顕わしかけて来た 。自分の国と民を、優秀づける癖は、外国にも乏しくはないが、それとは全く異っている事を、識者ならずも判る筈だ。苦悩の文明を、愛と平安の文明に飛躍さすべき使命は、吾等に懸っている事を、認識しなければならない 。

  此同一の目的の為に、私より他にも、種々の力の人が出るであろう事も信ずる 。

  観世音菩薩が、私の様な、浅才微力の者を選んで、日本医術を創始されるのは不思議な宿命であると思っている。そうして、私の霊体を通して、揮われる観音力が、 社会に拡充されたならば、数年ならずして、病人はーー今より三分の一以下に減少する事を、断言し得るのである。其暁、現在ーー日本人の平均寿命が四十五歳であるのを、 六、七拾歳に延長される訳である。統計によれば、日本国民の寿命が、一年延びれば、 三拾億の国富を増すという事である。故に、拾年延びれば三百億、二拾年延びれば六百億の富を増す事になる。

  病人が減ると言う事は、病人自身の幸福のみでない事は、前述の如く、国家経済に対しての、驚くべき大利益であり、国防上に於ても、其威力は、想像も付かない程のものであろう。勿論、一切の国難は解決されてしまう 。

  日本人の寿命が二拾年延びて、六拾五歳になるとしたら、どうなるであろう。日本は、断然ーー世界第一の国家となるのは知れ切った事である。故にーー日本医術の拡充運動こそは、軈(やが)て、日本に由って、世界は救われ日本天皇の大御稜威(おおみいづ)に光被(こうひ)されて、爰(ここ)に大光明世界は、建設さるるであろう。私は徒(いたず)らに、大言壮語するのではない。設(も) し、疑う人があるとしたら 、実地を体験して貰い度い、それは、観世音菩薩を信奉しーー日本医術による、生理衛生を行えば、半ケ年乃至一ケ年を経て、一家からは病魔は駆逐され、病気に対しての 不安は、除去されて了うのである。

  終に臨んで、天下の医学専門家諸士に希望する。それは、観音力が、如何に絶大であり、如何に驚くべき治病力があるかを研究されん事である。私は喜んで材料を提供する。

(岡田仁斎)

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