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こんにちは、戦前までの御講話の掲載が終わりました。
昭和10年1月から月2回ぐらいの御講話を掲載させてもらっていましたが、昭和11年1月1日と1月21日のご講話の後は11年5月15日「大日本健康協会発会式 御講話」そして、そのあとは昨日掲載の 昭和13(1938)年1月26日の御講話で、治療だけでいくことになった事の説明を話され、その後は戦後まで御講話はありません。表立って講話は開催できなくなっていた御様子です。戦前の厳しい社会情勢の中、発会してから躍進を続ける教団に、一体どのようなことが起こっていたのでしょうか・・・。
以下、『東方の光』から引用させてもらいながら、昭和10年立教後の様子を簡略に学ばせて頂きたいと思います。
昭和10年(1935年)1月1日、麹町仮本部で立教した「大日本観音会」は日に日に躍進し、数ヶ月も経つ頃には、もう仮本部の建物が手狭になるほどであった。そこで、本部にふさわしい土地、建物を物色することとなった。その最終的な候補地として挙げられたのが、東京南部の郊外玉川であった。教祖は久しい以前から多摩川の澄んだ流れを愛し、・・・
(中略)
「見ると実に吃驚した。あまり良くて立ちすくんだ。そして一も二もなく、これだと言って、之は用意してあったものだと言ったのです。」(後略)
『東方の光』下巻p47〜より
上記引用のように昭和10年1月に「大日本観音会」を発会し、さらに5月5日を期してメシヤ様は浄霊の取り次ぎを多くの信者に許すために「お守り」を揮毫、「日本医術講義録」を著し、講義録に基づく講習会を開いて人材養成にあたられました。これが後に「観音講座」へと発展していったとのことです。
日に日に躍進し手狭になってきて、同年の10月には広くて景色の良いメシヤ様が大変お気にいられた玉川郷に移られています。
しかし、一方日本では、昭和10年の12月8日には大本教の大弾圧があり、その後、新興宗教は次々に弾圧されていきます。また、明けて11年2月26日にはあの2.26事件が観音会東京本部のすぐそばでおき、今の時代では考えられないような不穏な空気が漂っていたようです。
昭和10年元旦「大日本観音会」発会以来教祖は宗教と医術、信仰と治療という2つの部門を並立させながら進めてきたが、このような時代の趨勢の中で、昭和11年5月15日、玉川郷において「大日本健康協会」の発会式が執り行われた。この協会の創立は、医術、治療の面を宗教から分離し、その独立を図ろうとしたものであった。発会式の席上、教祖は設立の目的について、所属する宗教のいかんにかかわらず、また、宗教を信じない人にも広く救済の道を開くために「大日本健康教会」を発足したと述べている。
しかし、こうした神業上の意味合いに加えて、協会設立には、宗教活動を思想闘争にからめて抑圧しようとする、当時の峻厳な官憲の取締りに対処するという目的があったのである。(後略)
『東方の光』下巻p69〜より
この後、官憲の干渉は強化されていき、「大日本健康協会」発会のわずか一月半後の7月1日断腸の思いで「大日本観音会」を自発的に解散せざるを得なくなったのでした。
その後、岡田式療病術の講習などとして治療に力を入れるも、警視庁に7月28日「療術行為禁止の命令」を突然出され、禁止令は事実上「大日本健康協会」そのものの解散を意味していました。
禁止令が出てから1週間後埼玉県の大宮警察から呼び出し、拘束、取り調べ
玉川に戻るも地元の玉川警察から呼び出し、11日間の留置、玉川郷は家宅捜査を受け、図書など押収されます。中島先生をはじめ、弟子にも取り調べ、さらには留置もされました。以降、表立ったことは何も出来なくなったようです。これが第1次玉川事件です。
昭和12年10月22日 治療禁止令解除。
しかし、再び活動を開始するにあたって、警察は宗教か療術行為かはっきりするように要求してきたので、メシヤ様は治療で立つことに決心し、「岡田式指圧療法」の名の下に活動を再開。
昭和15年11月28日〜30日玉川警察署に留置される。第2玉川事件
昭和15年12月1日 治療を廃業。この後弟子の養成に力を入れる。
昭和16年 顕官、実業家などの要望により、療術行為の届出をする
昭和19年5月5日 箱根強羅、「神山荘」へ移転
昭和10年開教後から終戦までのあらましです。詳しく知りたい方は『東方の光』を読まれるのが良いと思います。箱根美術館のオレンジハウスやMOA美術館入口のお店で購入できるのではと思います。
この頃のメシヤ様のご日常などもっと紹介させていただきたい事は沢山ありますが、今回は御神業の様子を中心に掲載させていただきました。
メシヤ様や高弟の先生方のたゆみないご苦労の上に今がある事をつくづく思わされました。
最後に玉川郷から自然農法の実施研究がされるようになった事を付け加えさせていただきます。
八尾屋