八、密教の興起以後 自観叢書第7篇『基仏と観音教』


昭和24(1949)年10月25日発行 観音教団編纂部


 大乗仏教の発達が既にその絶頂に達してしまい、そして早くも全盛期を通り越してやや下り坂になった頃に、従来の全仏教を総括して、これに外界のバラモン教の信仰を考慮しながら新たに組織され、また提唱されるようになったものが即ちここに言う密教なのでありまして、それは紀元後第七世紀以後のことに属するのであります。

 密教はインドにおける大乗仏教の復興以後に、その爛熟期に達した仏教の後を承けて興隆されたものでありまして、純粋のインド起源の新仏教なのであります。その興起した時代はやや後れてはおりますけれども、一般大乗仏教の勃興のように西域地方や中国の仏教とは全然没交渉に発生し、また発達しておるのであります。

 「大日」と「金剛頂」との両部の大経を主体としております純部の密教は、第七世紀の末期以後になってから創唱されたものであります。またその主唱者でもあり著作者でもある人達は恐らくナーランダーか、あるいはラダ方面にいた一流の学者だったであろうとされております。この密教は従来の大乗仏教を総合して、これを更に一歩進めたものであります。必ずしも外界の影響ばかりに帰するわけにはゆかないのではありますけれども、一説にはバラモンの影響に因って勃興したのだという向きもないではありません。

 この密教が前代までに未だかつて見ることのなかった新しい持味を見せておるわけでありますが、それは大略次の点にあろうかと思われます。つまりまず第一に、外部の組織において世間のあらゆる内外諸神を勧請して来ている点と、次には、仏菩薩の本誓威徳を標示するために、多首、多手、多足という異形の形相、並びに教令威怒の容相を現わした変身などを明かにするようになった点などであります。

 また大乗仏教において作善の随一とされておりましたところの仏像を造ったり、寺を建てたり、経文を写したりすることを密教では更に一歩を進めまして、よってもって教えの根本義としたのであります。南部の大曼茶羅を初めとして諸尊の形像曼茶羅を作ったり、さては経疎にさえこれを略して、図像でこれを伝授するようになったのであります。

 この教えは、善無畏三蔵と金剛智三蔵とが相次いでインドに来遊した頃から次第に盛んとなり、天宝の初めに不空三蔵などが再びインドに渡った頃には、セイロン島もインド本土もかなりその教線を拡大していたらしいのであります。

 その後も引続いてこの教えが広く流布されるようになったのであります。そして密教がインドに起ると同時に早速にして中国に伝えられ、それがまた直ちに日本へと伝播されました。このようにして、最も忠実に古伝のまま写瓶(しゃびょう)相承(そうじょう)して千載の今日も依然としてなお強くその伝道を見るものは独りただ日本あるのみであります。

 インド仏教が衰頽に向った理由には種々ありましょう。仏教が本来の面目を失して迷信に陥ったこともありましょう。バラモン教においてはシャンカラのような中興の大家が出て仏教家を排斥したこともあるでありましょう。また西暦十二、三世紀には回教がインドに侵入して仏教徒を迫害したり、寺院を破壊したりしたことなどもあるでありましょう。

 このようにして、インドの密教及び一般仏教は、ブータン、ネパール、チベットに移入され、また小乗仏教はビルマ、セイロン、シャム等に散在するに過ぎなくなってしまいました。そして今や仏教の真生命は却って遠くこの日本に生きているのみなのであります。

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