七、大乗仏教の全盛時代 自観叢書第7篇『基仏と観音教』

昭和24(1949)年10月25日発行 観音教団編纂部


 大乗仏教と申しますのは、前の初期小乗仏教時代が前後約六百年経過しました後に、その従来の仏教を嫌厭して起ってきた新興仏教なのであります。いわゆる「大乗」という名前はその新興仏教の信徒達が自から創唱したものなのであります。

 この大乗仏教は、地理的に言いますと、インドの西北国境外にありますカブールとかガンダーラとかを中枢としておりました大月氏の領土に発祥したものであります。これは、一方は東南インドへと逆流し、また他の一方は北西の中央アジアに入り、更に西はペルシア、東は中国全土に伝播しましてほとんど東方アジア全体に普及したのであります。

 前期の仏教は主としてインドの領域内においてだけ発達したのでありました。けれどもこの時代からはむしろインドの国境外において進展し、また伝播したのであります。つまり「インド」の仏教が一躍して「全アジア」の仏教となったわけであります。またこれを時代的に言いますと、西暦紀元後第二世紀に世に出ましたカニシカ王の統治する時代でありました。カニシカは大月氏の後裔であります。

 この時期に興起しました新興仏教であるいわゆる大乗仏教は、新しい進展をなして、全盛を極め第七、八世紀に及んでおるのであります。

 この大乗仏教はまた在家仏教とも呼ばれるものでありまして、一般に考えられているように小乗仏教が発展して、すらすらと無条件に大乗仏教に発達して来たものではありません。既に最初から截然(せつぜん)とした一つの溝が両者の間に出来てしまっておったのであります。

 まず大乗仏教におきましては、今まで小乗仏教中には全然影も形もなかったような思想なり信仰なりが取扱われておるのが判るのであります。例えば、「般若皆空」の思想とか、あるいはまた「三世十万の諸仏」とかいったものがそれであります。第二に、この在家仏教は日常の煩瑣(はんさ)な稼業に服して自己と妻子眷属を養いながら、出家修行者と同一の境地を完成しようとするものであります。従ってその修行上の徳目においてもまた小乗仏教、出家仏教とは大きな相違があるわけでありまして、「六波羅密」のような修行法が生れてくるわけであります。これらはいずれも皆大乗仏教独自の新宗旨であります。このようにして、日常の行事として取行うほんの小さな宗教的儀礼の上にもいろいろと新しいことが行われるようになったのは至極当然のことでありましょう。例えば、小乗仏教では従来仏像を作ったり、又経典を写したりするようなことはほとんど行わなかったのであります。ところがこの大乗仏教においては、その仏像を造ったり経典を写したりする事をもって作善福業の第一位に置いたのであります。

 このようなわけで、大乗仏教独特の思想なり、信仰なり、さては修行上の徳目や行儀などは、小乗仏教、出家仏教のそれらとは全然別途に新しく唱導されたり、または加説されたりしたものなのであります。従ってそれらが決して尋常一様の改案ではなかったことは確かであります。

 しかもこの大乗仏教が勃興するようになった直接の動機はと言いますと、旧来の仏教の革新のために新しい思想運動としまして一部の人達が唱導するようになったことには相違ないでありましょうけれども飜って考えてみますと、この地方に以前から存続していたところの郷土的な独自の文化とか、それから又他の諸国から伝わってきたものとしての、ギリシア、ローマ、ペルシアなどの文化とかが採り入れられて、ここに新しい宗教としての大乗仏教、在家仏教が興ったのだと考えてよいのであります。

 以上のようにこの在家仏教である大乗仏教が盛んに起って流行することになったのは、二世紀の中頃である彼のカニシカ王の世に出た時代だったのであります。そしてこの時代の文化がインドの内地へと逆流することになった事実につきましては、文献と遺物との両方面から立派にこれを証明することができるのであります。

 文献上の立場から歴史的にみてみますと、西暦第二世紀の後半から三世紀にかけて龍樹菩薩が南インドに出現しました。そして例の、中観を説き、「諸法皆空」の説を唱えて大乗仏教を拡めているのが認められるのであります。これより前、ガンダーラ地方に起った大乗仏教が中央アジアを経て中国に入っております。そしてこの南部北部両系の内、何といっても北方系の方が本筋なのであります。

 ところが西暦第六世紀頃からこれら南北両系を通じての大乗仏教の分布状態が一変するようになりました。つまり、まず前にインド内部へと逆流していった南方系の大乗仏教が、次第にその勢力を増大して、遂に一度は荒廃せしめられていた中央インドに仏教を復興させるようになったのであります。それがまた、やがて北方に伝播していった大乗仏教に重大な影響を与えることにもなったのであります。

 その原因は、海上航通が発達して、インドと中国との直接交通の道が開けたからでありました。海路による交通が頻繁の度を加えるに伴いまして、中国においては、西域地方を通過しなければならなかったものが、直下にインドの仏教文化を取り入れられるようになっていったためなのでありました。

 そしてこれより後は、従来の大陸を媒介にしての文化の交渉ルートは次第次第に閑散になり、疎遠になってしまったのであります。殊に唐時代の文化が発達した後になりますと、在来の形式とは全く逆になり、却って唐朝の文化が中国の西域地方へと侵入してゆくようにすらなったのであります。

 およそ大乗仏教が発達するには、自らいろいろの消長変遷を経てはおります。けれども、インド、中国、日本を通じてみますと、大乗仏教の爛熟期としてその黄金時代を現出しておりますのは、インドではハルシャ王時代、中国では高宗の時代、朝鮮では新羅統一時代の初期、日本では天平時代を含む西暦紀元後第七世紀をもってその絶頂とすることができるでありましょう。


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