御論文

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精神変質症 (自観叢書三 昭和二十四年八月二十五日)

症状からいっても精神病者とは受けとり難く、普通人と違はぬ思想も常識も備えてゐるが、唯だ意志通りの言葉や行動が出来ないだけである。此原因は多分前生時代、深刻に苦しめた相手が再生の彼に対し、その復讐をしてゐるのであらう
第三篇「霊界叢談」 

憑依霊の種々相 (自観叢書 昭和二十四年八月二十五日)

此男も霊媒として優秀なる資格者であった。此男は大酒呑みで酔ふと精神喪失者同様、物の見境ひもなく、一文の金も持たずして近所の酒屋を一軒々々飲み廻るのであるが、その尻拭ひを親父がいつも、させられるといふ
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グロ的憑依霊 (自観叢書三 昭和二十四年八月二十五日)

之は頗るグロで興味のある憑霊現象であった。確か昭和八年頃だったと思ふ。当時四十二歳の男、仙台の脳病院へ入院加療したが、更に効果がないので東京の慶応病院に診療に来たのであった。処が此男の症状といふのは頗る多種多様でグロ極まるものである。特に最も著しいのは普通人には見られない高熱で、体温計を挾(ハサ)むや忽ち体温計の最高である四十三度に昇るのである。
第三篇「霊界叢談」 

狐霊と老婆 (自叢三 昭和二十四年八月二十五日)

此意味によって現世に於ける職業、例えば遊女は狐、芸妓は猫といふやうに、相応の運命に墜ちるのである。従而人間はどうしても人間として愧(ハズカ)しからぬ行為をなすべきである。
第三篇「霊界叢談」 

化(バケ)人形 (自観叢書三 昭和二十四年八月二十五日)

以前私が扱った化人形といふ面白い話がある。或時私の友人が来ての話に、「化ける人形があって困ってゐるから解決して貰ひたい。」と言ふのである。私も好奇心に駈られ兎も角行く事にした
第三篇「霊界叢談」 

広吉の霊 (自観叢書三 昭和二十四年八月二十五日)

私は霊的研究と治病の実験を併せ行はふとした最初の頃である。それは十九歳になる肺患三期の娘を浄霊した。二回の浄霊で些か効果が見え第三回目の時であった。私が浄霊にかかると側に見てゐた娘の母親であるM夫人(五十歳位)が突然起上って
文明の創造

総篇 天国建設の順序と悪の追放( 文明の創造 昭和二十七年)

抑々、此世界を天国化するに就ては、一つの根本条件がある。それは何かといふと、現在大部分の人類が心中深く蔵(かく)されてゐる悪の追放である。それに就て不可解な事には、一般人の常識からいっても悪を不可とし、悪に触れる事を避けるのは勿論、倫理、道徳等を作って悪を戒め、教育も之を主眼としてをり、宗教に於ても善を勧め、悪を排斥してゐる
第三篇「霊界叢談」 

天国と地獄 (自観叢書三 昭和二十四年八月二十五日)

天国は曩に述べた如く上位の三段階になっており、第一天国、第二天国、第三天国がそれである。第一天国は最高の神々が在しまし、世界経綸の為絶えず経綸され給ふのである
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死後の種々相 (自観叢書三 霊界叢談 昭和二十四年八月二十五日)

死にも種々あるが、脳溢血や卒中、心臓麻痺、変死等のため、突如として霊界人となる場合があるが、何も知らない世人は病気の苦痛を知らないからむしろ倖せであるなどというが、これらは非常な誤りで実はこの上ない不幸である。それは死の覚悟がないため霊界に往っても自分は死んだとは思わず相変らず生きていると想っている
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祖霊と死後の準備 (自観叢書三 昭和二十四年八月二十五日)

世間よく仏壇を設置するのは長男だけで、次男以下は必要はないとしてあるが、これは大きな誤りである。何となれば両親が生きているとして、長男だけが好遇し、次男以下は冷遇または寄付けさせないとしたら、大なる親不幸となるではないか。そういう場合霊界におられる両親は気づかせようとして種々の方法をとるのである。そのために病人が出来るという事もあるから注意すべきである。
第三篇「霊界叢談」 

霊界と現界(自観叢書三 昭和二十四年八月二十五日)

そもそも人間とは肉体と霊体との二原素から成立っており、人間が死するや霊肉離脱し霊は直ちに霊界に入り霊界生活が始まるが、離脱の場合極善者は額から、極悪者は蹠(あし)の爪先から、一般人は腹部の中央臍部辺から霊は脱出するのであって、
第三篇「霊界叢談」 

霊界の存在(自観叢書第3篇『霊界叢談』昭和二十四年八月二十五日)

人間は何がためにこの世に生まれて来たものであろうか。この事をまず認識せねばならない。それは神は地上経綸の目的たる理想世界を建設せんがため人間を造り、それぞれの使命を与え、神の意図のままに活動させ給うのである。原始時代から今日のごとき絢爛(けんらん)たる文化時代に進展せしめたのも、現代のごとき人間智能の発達もそれがために外ならない。
第三篇「霊界叢談」 

自観叢書第3篇『霊界叢談』序文 昭和24年8月25日発行

そもそも今日学問も人智も進歩したというが、それは形而下の進歩であって、形而上の進歩は洵(まこと)に遅々たるものである。文化の進歩とは形而上も形而下も歩調を揃えて進みゆくところに真の価値があるのである。文化が素晴しい進歩を遂げつつあるに拘わらず、人間の幸福がそれに伴わないという事は、その主因たるや前述のごとく跛行的進歩であるからである。これを言い換えれば体的文化のみ進んで、霊的文化が遅れていたからである。
文明の創造

総篇 既成文化の謬点(びゅうてん) (文明の創造 昭和二十七年)

天の時来って絶対力を与へられ、其行使による人類救済の大使命を帯びて出顕したのが私である以上、私によって真理の深奥を説き、人類最後の救ひを実行すると共に、新文明世界設計に就ての指導的役割をも併せ行ふのであるから、実に全人類に対する空前絶後の一大福音(ふくいん)である。
栄光

⦿(ス)の文化 (栄光百七十三号 昭和二十七年九月十日)

言い換えれば九分九厘の悪を一厘の善の力で往生させるという意味である。恰度○全体が黒く塗りつぶされようとする時、チョン一の力で、反対に黒を消して白全体にして了うので、之を世界的にいえば空虚な文明に実を入れる。即ち魂を入れるのである
文明の創造

『文明の創造』 総篇 「序文」( 昭和二十七年)

此の著は歴史肇って以来未だ嘗てない大聖著であり、一言にしていえば新文明世界の設計書であり、天国の福音でもあり、二十世紀のバイブルといってもよかろう。即ち現在の文明は真の文明ではなく、新文明が生まれるまでの仮の文明であって、聖書にある世の終りとは、この仮定文明世界の終りを言ったものである。また今一つの“普く天国の福音を宜べ伝えらるべし、然る後末期到る”との予言も、この著の事であろう。
大経綸

東方の光  (栄光百八十二号  昭和二十七年十一月十二日) 

今から約二千年前位と思うが、ヨーロッパの一隅から東方の光という言葉が生れ、段々拡がって今日は世界中知らぬ者はない程であるが、今日迄此言葉の意味が本当に 分らなかった為、今尚謎のまゝになっているのであるが、私は之に就て真の意味を知らせようと思うのである。
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『天国の福音書』 序文  救世(メシヤ)教とは何ぞや       (天国の福音書 昭和二十九年八月二十五日)

この文を書くに当って、前以て断っておきたい事は、我がメシヤ教は純然たる宗教ではないのである。と言っても、一部には宗教も含まれてはいるが、全部でない事は勿論である。では、何故メシヤ教の名を附けたかというと、何しろ有史以来夢想だもしなかった処の劃期的救いの業である以上、止むを得ずそう附けたまでであって、特殊の名前を附けるよりも、この方が分り易く親しみ易いからで、これを卒直に言って宗教以上の宗教、即ち超宗教であり、空前の救いの業と思えばいい

大経綸

六韜三略の巻 (栄光百十九号 昭和二十六年八月二十九日)

之は全く、仏滅後ミロクの世を御造りになる大経綸の、深い仕組をかかれたものに違いなく、其文字はミロクの神様の御神示をかかれたものであって之こそ私が現在実行しつつある、多種多様の神業のプログラムで、私が見真実になった時、已に明されたものである。
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私は宗教科学者だ (栄光255号 昭和29年4月7日)

近来学者間に於てヴィールスは無機物か有機物かの論議があるそうだが、実に滑稽である。それは無機物から有機物に変化せんとする中間粒子であるからで、どちらとも決められないのである。従って肝腎なのは無機物発生の原地であって、これが霊界である。故にこれが分れば最早顕微鏡の必要はなくなる訳である。
第四篇「奇跡物語」

黄泉比良坂の戦 自観叢書第4篇『奇蹟物語』昭和24年10月5日

この標題について、時々たずねられるから概略解説してみよう。これはもちろん古事記にあるものでそれを如実に私が体験した経緯をかくのである。
政治

再び汚職の母体 (栄光二百五十一号 昭和二十九年三月十日)

この題の下に前号に色々かいたが、まだ言い足りない点があるので、再びかいてみようと思うのである。というのは目下ジャーナリストがこの問題に対する批判として、各新聞に出ているのを見ると、尤もらしい理屈はかいているが、その実平平凡々、何等新味はなく

政治

汚職の母体 (栄光二百五十号 昭和二十九年三月三日)

汚職の急所とは何であるかというと有神思想であって、実は汚職問題と雖もその発生の母体は有神思想とは反対の無神思想であるから始末が悪いのである。言うまでもなく無神思想とは、ズルイ事をしても人の眼にさえ触れなければ済むとする怪しからん考え方であって、然も人智の進む程それが益々巧妙になると共に、出世の第一条件とさえ思われている今日である。
神霊科学

浄霊は科学療法なり-1(栄光二百四十三号  昭和二十九年一月十三日)

抑々人間なるものは万物中最高級なる生物であって、実に神秘霊妙到底人智では計り得ないものがある。処が科学はそのような深い点は全然未知なるが為、人間を以て単なる一個の動物と看做し、物質である肉体のみを対象として来たのでから、病気を以て肉体の毀損と解し、薬剤や機械等の物質を以て修理しようとする甚だ単純な考え方であった。

大経綸

浄霊は科学療法なり-2 (栄光二百四十七号 昭和二十九年二月十日)

前(サキ)にかいた処の太陽の精なるものは、勿論太陽の霊であるのは言うまでもないが、では何故今日まで地球上それが現われなかったかというと、これには大なる神秘 的理由がある事であって、それを詳しく書いてみよう。
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感じの良い人 (栄光257号 昭和29年4月21日)

凡そ感じが良いという言葉程、感じの良い響きを与えるものはあるまい。処がよく 考えてみると、処世上これが案外重要である事である。それは個人の運命は固より、社会上至大な関係があるのである。例えば誰しも感じのいい人に接すると、その人も感じが良くなり、次から次へと拡がってゆくとしたら、心地よい社会が出来るのは勿論である
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優しさと奥床しさ (栄光七十五号 昭和二十五年十月二十五日)

凡そ現代の人間を観る時、最も欠除してゐるものは、優しさと奥床しさであらう。 先づ茲では本教を主としてかいてみるが、例えば自分の信仰がどれ程進み、身魂がどの位磨けたかを知るには一の標準があって、これは左程難しい事ではない、何よりも人と争う事を好まなくなり、優しさが湧き奥床しさが現はれる、斯ういう心と態度 になるこそ磨けたとみてよく、此点最も信仰の価値を見出すのである

薬剤は科学?(栄光二百五十四号 昭和二十九年三月三十一日)      

驚いてはいけない、薬が効くのと病気の治るのとは似て否なるもので、根本的に異っている事である。という訳は 薬が効くというのは苦痛が一時治まるだけの事であって、病気そのものが治るのではない。