結核(2)『アメリカを救う』昭和28年1月1日発行※御蔭話

これぞ救い
 ―― 身を以て体験した医学の恐しさ ――

     東京都  M.M(32)


 シベリヤの捕虜生活の苦難の道をたどり、帰国の喜びも束の間、病魔におそわれ生きる希望もなく、この世に神は絶対になきものと一家心中まで覚悟した私の目前に救世の光は輝き初めたのです。疑いつつうけた浄霊に奇しくも再起の喜びを得、感謝感激の余り拙文も省みず御礼申し上げます。

 思い起せば六年前、終戦と同時に緑鬱蒼(うっそう)と生い茂るシベリヤの奥地に連行され、想像だもしなかった捕虜生活が始ったのです。九月中旬早や降雪、気温は下り、毎食飯盒(はんごう)の蓋一杯に高梁あるいは玉萄黍(とうもろこし)等へ塩を入れて炊いた物、塩錬のスープ、塩鰈(カレイ)等が渡され、なれぬ食物に初めは咽喉を通らなかったのが、いつしかやっと咽喉を通るようになり、捕虜生活も板について来た十月、十一月には野菜の配給は少しもなく、手あたり次第とってたべた青草も枯野原と化し、雪にとざされてしまうと、同時に食糧不足栄養失調のため、体の自由がきかなくなり、次第に寒さ加わり、肉も凍る厳寒にたえかねてバタバタ倒れてゆきました。

 「皆頑張ろう。忍耐だ。我慢だ。帰るまでは」を合言葉に頑張りぬいていた気力も潰(つい)え果て、妻を子をそして故郷に思いを馳せつつ、異郷の空に儚(はか)なくも一人二人と散ってゆくのでした。そして五、六百人収容の病院で日に一割以上の死亡者を出す様になり、死屍は屋外の一カ所に集められ、それがカチカチに凍ると軍医がタポール(鉞(マサカリ))を持って来て頭から腹まで立割り、どこを調べるでもなく解剖したことにして、死亡診断書を書いて行って仕舞う。後の死体を日本人の兵隊が南京袋に詰めて橇(そり)ではこび、各処に掘られた穴に投込む由、同胞のこの痛々しい姿に、誰か暗涙に咽(むせ)ばざる人があるでしょうか。この惨劇に目をおおいつつ、こんな事が赦されて神仏があるのだろうか。寂寞(じゃくばく)さを感じつつも、一日千秋の思いで無事の復員を待っているだろう家族を思うと、崩れゆく心に鞭打って森林の奥深く膝まで没す雪の中で、杖をひき、伐材の作業に頑張り続けました。苦労に苦労を重ねて満二年、やっとシベリヤの山奥にも民主グループの声高く、作業も、食糧も楽になったとき、ハラショラボータ(作業良好)として政治部員より帰国の内命を受け、患者の中に加えられ、懐しの故郷へ元気で帰る事が出来ました。しかし、長いシベリヤ生活に病気一つしなかった私が故郷へ帰りやれやれと腰を伸したのも束の間、二十二年九月に帰り、同年十二月には左鼠蹊腺が腫れ上り、三鷹診療所にて第四期性病だろうとの診断、早速硼酸(ほうさん)湿布、ズルファミンの服薬致し、一週間で散ってしまったとホッと一息致しましたら、翌年一月尿道と直腸の間に穴があき小便の半分は肛門へ廻るようになり、慶応病院へ通院中二月には左睾丸が腫れ、激痛加わり、三週間程病室のあくのを待って手術(切取)致しました。この間ペニシリン三〇万単位五本、ザルブロ二〇CC十本注射致しました。手術の疵口(きずぐち)も治らぬ内に、左湿性胸膜となり、ザルブロ三〇本うち、三カ月で治癒の形をとり勤めに出て一カ月、今度は右睾丸が腫れ上り、片方だけは何とかして助けたいと、ペニシリン三〇万単位五本、ザルブロ十五本荘射しましたが痛みは益々加わり、卵大に腫れ、ついに又手術を言渡されました。手術せずなおるものならと、ダイヤジン五十粒程のみましたが、やはり腫れと痛みは退かず、止むをえず入院手術を受けました。幸い子供は男児が一人ありましたものの、無慙に切取られた睾丸を見て、一生子供は一人より授からぬかと思うと、いつしかハラハラと頬を濡らす涙を止めようもありませんでした。三カ月して又左胸膜が再発、六カ月休養して勤めに出て五カ月、又しても再発、医師より絶対安静を申し渡され遂に立つ事の出来ぬ体となり、二十四年十二月には右肺も侵され、同時に腸結核も発病せし診断を受けた時は、一時に希望も消え、ただただ悲歎の涙に暮れました。

 近所の子供は「肺病、肺病」と寄りつかず、罪なき子まで相手にされず一人淋しく遊ぶ姿を見ては、父故にと思えば吾運命に女々しく泣くのみ。あの捕虜の苦しみもこの子のために親子しての楽しい生活を夢見つつ、頑張りぬいて来たのではないか。生きたい、もう一度元気になりたい。再起を念願して最後の財布もはたきストレプトマイシン五本を入手致し、一日に二回の注射で解熱し始め、ザルプロ、ザルピタール静脈注射八〇本にて二十五年三月四月と発熱もなく、鳴呼これで助かった、後は恢復を待つのみと夫婦手を取って嬉し泣きに泣きました。が又々五月発熱、腸は痛み、下痢は増し、背中、胸はたえ難き激痛、氷枕ははなされず、右肺に空洞が出来手術するより方法なしといわれ、うちのめされたような衝動をおさえ、入院を御願い致しましたが、いつまで待っても部屋はあきません。

 最早や恢復の望みも夢、一日も早く死のう、皆さんの御迷惑を無くせねば申し訳ない。一枚二枚と手放された着物も今は薬代に変るものさえなく、病苦と経済苦とにせめられて前途は死あるのみ、それよりただ自殺の機会を待ちました。

 「父を許してくれ」も心の内、青酸加里を入れたアンパンを手に「坊や良い物上げるよ」と差出せば、飛び来たり喜ぶ吾子。皆さんいかに心を鬼にしても渡す事が出来ましょうか。手は震え、「待て!」と叫ぶ心の声、ハッと吾に帰る悪夢のような瞬間から呼び覚された時、罪の探さにとめどなくこみ上げる鳴咽。今日は死のう明日は死のう、と準備しながらも、無心に微笑で眠りおる子供の顔を見ると決心も鈍り、もう一日もう一日親の務めを果してと夫婦して涙に暮れました。死を覚悟しながらも生延びたい生への欲望故に、パスをのみ続けておりました。

 二十六年三月十六日実家の前のSさんが、母より「Mが死にそうです。何とか助けて下さいと依頼された」と来宅下さいました。そして救世教の御話を御聞かせ下さいましたが、シベリヤ生活より神仏に合掌致す事が出来なくなっておりました私には、尊き御話も信ずることは出来ませんでしたが、夜を徹してお話し下さるSさんの誠心に動かされ、「どうせ死を覚悟していた私です。薬をやめるのはいと易き事です。それでは信じなくてもよいでしょうか」と言った時は夜はしらじらと明け初めていました。「結構です。ただ御浄霊を頂くと種々変化がありますが、その時驚いて間違った手当をして自ら墓穴を掘らないように」と申されます。助かるものなら今一度元気になりたい、子供のために……

 御浄霊を頂きましていつになくグッスリと眠られ、翌朝は床の上に起上り食事も出来ました。今までは呼吸苦しく、便所に行くのもやっとだったのに、二十分三十分過ぎても疲れる事なく、本当に不思議だと妻と話合っておりました。それより毎日御浄霊を受け、一週間後には庭へ散歩も出来る程になり、鳴呼助かった、業病治る。きっと治して頂けると感じ、心よりただただ有難うございました、と合掌致す事が出来る様になりました。嘔吐下痢の激しい浄化も三、四回あり日増に元気が加わって参りました。

 「有難い御守様を頂きなさい」と、Sさんが妻の御礼を貸して下さり、御厚意により夫婦そろって教修を受けさせて頂けるようになり、M町の教修会場へ行きました。行く時はフラッとしていた体も、一日の教修を終り一歩外に踏出せば足がシャンとして歩みの軽き事、不思議! 駅の階段さえ元気の時と変らぬように昇降出来ました。有難い御守護と感謝申し上げる許りでした。三日間終始涙で拝聴致し、御守様を拝受致します時は、手は震え、神人合一、観念の神にはあらず、現実の神、神はこの世に厳然とおられたのだ、穢れ多き吾身にも御分霊が宿らせたまう随喜の涙にひれふしてしまいました。「もう二度と死ぬなんて考えを起しません。お救い下さい」と涙で後の声は消え、Sさんが「お目出度う」と申された時は声も出ませんでした。なみいる方々も皆涙を流して喜んで下さいました。

 戦争、捕虜生活、病床、幾度か吾子と共に死を決した絶望のドン底の姿、走馬灯のように過ぎし日がうかんでくる。真理を知らぬがために我と吾身をさいなんでいた過去、最初は鼠蹊腺部が腫れただけであるのに、浄化停止のために再発に再発を重ね、肉を切り、医師から見放されるまで医薬に対する不信がなぜおきなかったのだろうか。犯罪、戦慄すべき戦争も元を正せば薬剤のためとは。世界人類の知らざるところに不幸の種が根強くはられている。分れば分る程一つ一つが驚異でした。今ここに真理は開明され、不幸を生んだ文明は幸福を生む文明と切替えられる時期が到来している事、真善美調和した天国の出現……苦しみが大きかっただけに救われし喜びもまた一入でした。

 入信翌日より三人五人と毎日御浄霊に飛び廻らせて頂いており、全く夢の様でございます。それよりは一途に光明如来様に御縋り申し上げ、度々御浄化を頂き、日増に健康になりつつあります。

 K支部の旬並祭、月並祭にはかかさず参拝致しておりますが、その日出掛ける前一回二回と必ず嘔吐の浄化を頂き、罪穢多き身を浄めて御参りさせて頂けます御恵に、その度毎に明主様への感謝を深めさせて頂いております。

 五月一日には熱海へ、七月一日には強羅へ御参拝させて頂き、親しく明主様の御顔を拝し、地獄世界より救われしこの身の仕合せを心より感謝申し上げました。あれ程無神論者で疑った頑固な私が申し訳なく、感無量でございました。この絶大なる救世の御力を未だ知らざる世の人々に、一人でも多く一日も早くお知らせ申し上げねばと、固く固く明主様にお誓い申し上げた次第でございます。
              (昭和二十六年九月十五日)

気胸二カ年の肺結核より救わる

      東京都   N.T(24)


 肺結核の苦悩のどん底より歓喜に満ちた生活に転換さして頂いた私の喜びを、嬉しさの余り結核に苦しむ人のために乱文では御座いますが御報告させて頂きます。

 私は血気盛んな折、風邪気味ながら東京貯金支局に勤務致しておりました。昭和二十一年二月の事、年一回の集団検診がありまして、レントゲン検査で曇りがあると申し渡されました。小さい時より病気一つしなかったもので、その時の落胆は言いようがありませんでした。役所の医師に休むように言い渡され、仕方なしに休むようになり、その後宮内省病院へ行き再診して左肺浸潤との事、三カ月天井ばかり見ている安静生活が始りました。昔から不治と言われる病気ながら、医師の言う通り安静、栄養を忠実に守り、結果は一進一退、早く治そうと焦りました。三カ月経ちレントゲン検査の結果「空洞が出来ている」との事で、気胸をするよう勧められ、私は反対でしたのですが、親も奨めますので仕方なしにやりました。その気胸をやるのが痛いのでその日が来るのがいやでした。空気三〇〇CC位入れ空洞をつぶすとの事です。胸は苦しくて困りましたが、それでも根気よく続けました。その結果空洞はつぶれましたが、今度はあまり空気を入れすぎ副作用により水が溜り、遂に肋膜炎を起してしまいました。その後も水を取りながら気胸を続けました。気胸は根気よく二年間約七十回続けました。その中「心臓は右に移動し、滞った水は化膿した」との事で、一週間許り入院を致しまして調べましたが、外科では「化膿していない」と申されましたので一時退院を致しましたら、気胸のあとが腫れて化膿し始め、オデキのようになり、腫れては膿が出、又腫れるという風に幾個所も化膿して参りました。その内皮が破れ胸一杯潰瘍になってしまい、実に困りまして病院へ行きましたところ、外科へ廻され治療を受ける事になりました。しかし余り酷くて治らないので終には面倒になり「手術をした方がよい」と申されました。その時の外科医との対談中私が「手術をすれば治りますか」と訊けば、「それは分らん、君道路を歩いていて自動車に轢かれるという事もある。それは突発事故だ。手術も同じである」と言われます。人間の生命を扱うのにあっさりした解答で、ただ茫然となりました。内科医は「反って手術しない方が良い結果になる時もある」と言われますし、私自身も気が進まぬまま手術を中止して家庭療法に入る事にしました。その時、私はもう医学にも見放された者と悲観し、ほとんど自暴自棄的な気持で運を天に委せていたのです。

 ちょうどその頃昭和二十四年一月十六日、フトした動機で隣のKさんという信者さんの家に行くようになり、そこで神の大愛の御手は差伸べられたのであります。色々とお道の話をお聞きし、私も驚いて浄霊を受けてみる気になり、それより赤羽のAさんと言う信者さんの家へ通い浄霊をして頂きました。色々有難い奇蹟の話もきかされますし、浄霊の原理も話して貰いましたが、その頃は勿論半信半疑でただ無我夢中でした。初めの中は別に変化もありませんでしたが、五月に御浄化を頂き、血便の下痢がはじまり一週間ばかり続きました。それからは身体は軽くなり、肋膜の水が出たのではないかと思いました。その後は日増に良くなり、潰瘍もすっかり乾いて来たのです。お蔭様で二年目には気胸の後の傷口もくっつき、外科医師の絶対にくっつかないと言った傷口が塞がり、大変嬉しく感激致しました。

 医療をやめてから二年目の二十六年六月二十八日に久し振りでレントゲンで診てみたく思い、宮内省の病院に行きますと、両側の椅子には病人が一杯おりました。その中には二年前に知っている患者さんもおり、まだ身体が悪くて、青い顔をして続けて通っているのに驚きました。前にお世話になったS医師に会いましたところ、先生は私があまり変りましたので、暫くは私と分らない様子でした。それもそのはずです、二年前には死の一歩手前、実に見るも憐れな状態で病院を去ったのですから。やがて診察室に入り診察を受けました時S医師は「君、幽霊かと思ったよ」とか「もう三回忌のはずじゃないか」などと言ってしきりに驚かれます。私は「幽霊が話をしますか」と冗談を申しましたが、本当に自分は大きなお救にあずかったのだという事を改めて深く心に感じ、感謝の思いに満されました。診察の結果とにかく余りに良好なので驚き「一体どうしてこのように丈夫になったのか」ときかれましたので、救世教に入信、御浄霊を受けて治して頂いた一切を話しました。医師は「水もないらしい。ラッセルの範囲も小さくなった」と診察しつつ、ただただウーンと唸った切りで首を傾げております。

 更にレントゲンの透視で調べて「水もなく大変肺もきれいだ」との事で、又々驚いておられるではありませんか。この時程医学の力と浄霊の御神力の違いさの大きい事を感じた事はなく、鳴呼、こうして自分は救われたのだ、これも皆明主様のお蔭と深く深く感謝申し上げました。早く御礼申し上ぐべきところ、延引致しました事をお詫び申し上げます。
 明主様本当に有難うございました。
               (昭和二十七年四月二十五日)

世紀の奇跡
  この感激の事実をみよ

      佐賀県  S.T(41)


 物情騒然たる昭和二十六年のこの春、私の長男H(十七歳)は福岡県A高等学校へ入学することになりました。常日頃さしたる勉強の様子もなく、入試困難と言うよりも、当然入学不能とさえ思っておりましたところ、奇蹟的にも入学の喜びに胸を張って家を出て行く我子の姿を見る時に、私の想いは十三年前の追憶にふけるのでございます。

 長男は昭和十年七月二十三日に出生、間もなく排便の状態を医師に見られたのが始りで、消化不良の烙印を捺され、人工栄養注射等々手を尽す毎に状態は悪化し、当時私は三十五円也の月給生活者として、当然落ちて行く経済逼迫に、医療の手当も段々遠くなり、手を拱(こまね)いてただ子供の死の迫るのを待つ状態となったのでございます。その間肺炎を惹き起し、「吸入器を買って掛けるように」との医師の言葉にも、それを購う金すらなく、胸のはりさけるような思いに、家にいたたまれずそっと抜け出て放心の姿を町はずれの小川の堤に歩いたことも幾度かありました。その間に医師を替えてみたらとの人の言葉に誘われて、今までの小児科専門医をやめて、産婦人科専門医へ転じたのです。ところが、その医師のやり方は以前の小児科医とは全然反対で総て放任主義で、その言うことは、「私の家の子供なんかは腐りかかったバナナでも少しずつやるようにしている。そのうち物にあたらなくなる。乞食の子を御覧よ。私なんか風邪を引いて熱のある時には必ず風呂に入るようにしている」と言うのです。私はびっくりしましたが、もう所詮この子の生命は無いものだとの観念から私も放任主義を取ったのです。ところが良くなって来る様子はないが、それかと言って死ぬ様子もないのです。このような状態で、生まれた時は丸々と肥っていた優良乳児も今は見る影もない姿となりながら、四歳を過ぎました頃変調を来し、当時東京でも有名な早期診断の大家とも言われる某博士の診察を受けたのです(私もその頃は博士の診察料位はどうやら一、二度ならば支払えるような状態にありました)。ところが某博士は「これは小児結核です。しかもかなり進んでいる。まあ遠慮なく言うなら、後二年位しかもたないでしよう」と言い、私は又も大鉄鎚を加えられたのです。今となっては為すべき方法もない、どんなことをしようとも後二年……この時、ああこの時、御光に接したのでございます。

 わがまま一ぱいに育てた我子、時には親も腹立たしくなる位のわがままの子を……明主様はいつも慈愛の御顔をもって御浄霊下されたのでございます。親としてはただただ感謝、感激の明暮が続きました。それ以来、ある時は眉をひそめる程の大浄化を幾度か戴いて参ったのでございます。この間、次男K(当年十四歳)は三回にわたる疫痢の状態、又ある時は絶望的の脳膜炎の状態等々の大浄化も御救い賜わり、今日に至ったのでございます。現在私は五児の親となっておりますが、各々の子供がそれぞれ奇蹟の御救いの中に今日では益々元気で日々を送らせて戴いている次第でございます。

 私は声を大にして、世の子を持つ親として皆様に御告げ申し上げたいのでございます。六歳を限りとしてこの世に無いと言われた私のこの子が、今日あるこの姿を御覧下さいませ。このような奇蹟は独り私共に止まらないのでございます。ある人は一家心中の寸前に御救い戴き、ある人は今日の日本において最も排斥さるるべき主義思想の渦中より一歩一歩と御救いの御力により引抜かれ、ただ今は夢のような明暮を過させて戴いている人もございます。これら数限り無く続く御守護の奇蹟を正しく見つめて戴きたいのでございます。なおこの子は現在バレーボールの選手にさえなり、背丈も親より既に越えて五尺三寸、足も十文半を越えようとさえしております。この事実をどうぞ御覧戴き度いと常々希望致しております。

 奇蹟の生命、奇蹟の発育、次いで奇蹟の入学……明主様誠に有難うございます。何卒今後とも私共親子等を地上天国建設の御聖業の御一端にお使い賜わりますよう伏して御願い申し上げます。
          (昭和二十六年七月四日)




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