結核(3)『アメリカを救う』昭和28年1月1日発行※御蔭話

整形手術を免れて

      神奈川県  H.M(28)

       

 今ここに謹みて感謝の御礼を申し述べさせて頂ける身の有難さに、胸が一杯でございます。

 昭和二十五年もあと一カ月足らずと言う時、私は頸のぐりぐりが腫れ出し、某病院で診察を受けますと「ルイレキ」と診断され、「体から治さなければ治らない」という事で、内科に行きレントゲン写真をとりましたところ、今度は「肺浸潤」と診断され、これからの生活の事など考えている矢先、子供(一年九カ月)がハシカになり、楽しかるべき正月も暗い家の中で過しました。

 子供はハシカの後が悪く、私は安静にしていなくてはいけない体で子供を背負い、一日おきに医者に通いました。一カ月通いましたのに余りはかばかしくないので親子でレントゲン写真を撮りましたら、私の結核は一層進み、絶対安静にしなければならなくなりました。でも「子供にはまだ伝染していない」と言うので伝染を心配し、子供をある厚生施設にあずけました。これで私も安静に出来工場を休んでいた主人も安心して働けると、喜んだのも束の間、主人は出勤して二日目に、手首に打撲傷を受け、働けなくなって帰ってきました。どこまで私共には不幸が続くのかと死にたくさえなりました。主人の傷は一週間たっても治らず、心配の余りレントゲンで診て頂いたところ「幸い骨に異状はないが骨膜炎になるおそれがあるから当分無理をしないように」と注意され、いつ働けるとも知れず、本当に心細い思いでした(その頃は医療費は親戚から借りておりました)。

 ふと三年前主人が腰の痛みを治して頂いた事が頭に浮び、早速子安の救世教のO先生にお願いする事にきめ、三月二十三日に初めて御浄霊をして頂きました。

 翌二十四日A出張所の月並祭で主人だけお参りに行き、T支部長先生に御浄霊して頂き、色々とはげまして頂きました。

 御守護により手も大変楽になりましたので、翌二十五日から工場へ出られるようになりました。それからは御神書、『栄光』新聞等乏しい経済ながらも一生懸命拝読させて戴きました。

 O先生は働いている主人や私のために、夜間わざわざ御浄霊に来て下さいました。お蔭で主人は働きながら手の傷がなおり、一週間工場で力仕事をしても何ともないまでに完全に治して頂きました。

 四月八日には主人が有難いお守様をB支部の月並祭の日に頂戴致し、それからは主人に朝晩浄霊して頂き、お蔭様で体も日増に恢復し、身の廻りのこと位出来るようになり、半月後には鶴見出張所へ通えるようになり、一層工合よく、「ルイレキ」も四カ月目振りにさっぱりとさせて頂きました。

 ちょうどその頃主人が子供に面会に行きますと、子供は小児結核になっており、食欲もなく毎日栄養注射で補っているということで、もう骨と皮ばかりに痩せ衰えてしまい、主人もびっくりして帰り、早速連れもどす相談を致しました。又O先生にお取次をお願いして明主様に御守護御願をして頂きました。

 ところが面倒な手続をして漸く預けたため、連れ戻す事も面倒にて、私が全快しない中は親子共倒れになる恐れがあるからと、レントゲン写真を撮る事になり、保健所で撮りますと「大分悪いからすぐ整形手術をした方がよい」との事、この写真を持っては子供を迎えに行く事も出来ず、思案に暮れてA出張所へ行き、O先生に御相談致しました。先生は、「大光明如来様によくお願いして行って御覧なさい。必ず神様がよいようにして下さいますよ」と、笑いながらおっしゃるのです。素人の私が見てさえ悪いところがはっきりわかる写真だからと思いましたが、先生の数々の御注意は神様が先生を通じての御言葉と思い、大光明如来様によく御守護をお願い申し上げて持って参りますと、「ああこれなら大丈夫」といわれ、余りの事に何と言ってよいかわからず、こみ上げてくる嬉しさ有難さ……どうぞ御想像下さいませ。念のため手術の事を話しますと「そんなに進んでいない。もう少し気をつけていれば大丈夫」という事で、三カ月振に子供に逢う事が出来ました時は、天にも昇る気持でございました。

 不思議な事には、明主様に御守護をお願い申し上げたその日から、子供の食欲が出て、迎えに行った時は普通食を食べて注射も一本位しか打っていないという事で、重ね重ねの御守護にただただ涙が溢れるばかりでございました。

 それからは毎日、親子で鶴見出張所へ通い、一日一日と元気にならせて頂き、六月十八日の月並祭には私も有難いお守様を嬉し涙にて頂きました。続いて六月二十五日には御屏風観音様もお祀り出来ました。

 ただ今では子供も人一倍のいたずらっ子になり、主人も元気に毎日働かせて頂き、借金も全部返済出来、本当に光明一家にさせて頂きました。

 この大光明如来様の大御恵に少しでもお報い申し上げる覚悟でございます。
 明主様、誠に有難うございました。
                (昭和二十七年五月五日)

喉頭結核救わる

       長崎県   S.T(35)


 私は昭和二十六年六月十五日御守様を戴きました者で御座います。妻A(三十四歳)は四月初めに発病し床につきました。五月頃○○診療所の医者に診てもらいました時、医者の言われますには、喉頭結核並びに肺結核との診断でした。「薬をのんでも注射をしても治りますが一時ですよ」と言われ気を落しました。私の祖父(Y)も四十代に妻を亡くし、母K(四十三歳)もこれにて逝去し、今また三代目の私も男やもめとなるのではなかろうかなどと日毎夜毎に悩み続けました。妻は日に増し衰弱し、苦しみ、将に死の一歩手前となりました。近所親族の人に御茶を出してもそのままにて飲んで戴けず日毎に来る客も減り、家は暗く、心は重く、仕事も手に付かず、子供の面倒から家畜の世話と多忙な事ばかりにて父とは争い、前途の希望はなくなり、捨鉢な心持でしたが、何とかして妻を助けたく思い、悲しい時の神頼みとか、あちらこちらの神様参り等と心はまよい、薬草または「まむし」等と人から聞き次第してみましたが、病人は前記のごとく悪くなるばかりでした。

 その頃私のすぐ近所に、お道に入信されているT様が、ある店先にてお道の有難いお話をしておられました。私はちょっと用件を後まわしにして聞きました。不思議にも病人をもつ身は心ひかれました。良く聞いておりますとただの信仰でなく、科学的のお話も有り、霊的の御話も有り、現代医学より上であると思い、早速来て戴くように御願い致し、「妻が全快すれば私もお道に協力しますから」と御願いしました。翌朝、T様は来て下さいました。御浄霊を戴き終ってから病人に向って「私は奥さんは結核ではないと思います。御浄霊を続けられ信仰なされば救われますよ、治りますよ」と申されました。私も妻も「これほどの病気が手をかざすだけで」と本当には思いませんでした。私と同じように農業しておった人が六カ月位信仰して、医者の見切った病人をあまり簡単に言われますので、ちょっと信用出来かねましたが、店先にての話を思い出し、又来て戴くように御願い致しました。それから毎日来て戴きました。御霊紙等も戴かさして下さいまして、四、五回の御浄霊を戴きますと不思議に熱は下り、咳も止り、大変楽になりました。その喜びは何とも言えませんでした。T様は「近所ですから毎日来ては上げますが、ちょっと長くかかりそうですから入信されては……」と奨められ、私も有難く六月十五日御守を戴き入信さして戴きました。そして私は分らぬまま手をかざし始めました。そして二、三日おき位にT様に来て戴き御導を受け、続けて御浄霊を致しておりますと、一日十五回も下痢を致しました。又しばらくして十回も下痢や痰が出つつ日々快方に向いました。八月八日御屏風観音様を拝受致しました。妻は元の健康体に治して戴きましたが、八日の晩に二歳になる修(二男)が急に熱発して四十度余りとなり、死人のごとくなり、かすかに脈打つのみでした。私が見ますと日本脳炎らしく、私は夜通し御浄霊を致しましたがあまり良くならず、朝を待って私は着物にOを包んで抱えてT様宅に行き、光明如来様に一生懸命に御守護を御願いし、御浄霊を戴いて帰り、夕方妻がつれて御参り致し御浄霊を戴きましたら、その次の日から快方に向い、治らせて戴きました。八月十一日妻も四里位もある出張所まで初めて参拝し、御守様を戴き又四里を歩いて無事帰宅致しました。その晩の私の気持を御想像下さい。

 九月二十六日晩より長男M(八歳)が全身が腫れ上り、腎臓炎のごとく苦しみますので、毎日御浄霊を致し、またT様宅に御浄霊に参らせました。その頃妻の里に供養に行きますと、親族は口を揃えて「早く医者に診てもらいなさい」と申しました。私は「有難い御浄化ですから」と安心しておりましたが、あまり良くないので十月五日支部のお祭りに自動車にて連れて参りました。そして出張所のN先生に特別浄霊を受けました。すると見る見る二、三日にて快方に向い治りました。十月十八日H先生の御奨めを戴き、長男Mも入信さして戴きました。

 私も、二十七年一月十三日御神体を拝受し、御奉斎戴き、暗かりし我が家に光は射し初め、昨日と変って明るく私は前途が楽しくなって参りました。二月十五日に唐津支部に参拝し、光明の御守様を戴きました。

 私もお道の有難さを人様に話しており、お救いの道に働かさせて戴いています。今年よりの麦作からは自然農法もやらさして戴いております。世の皆々様前記の通りで御座います。何卒一人でも多くお道が良くわかられて救われなさいます事を切に祈ってやみません。

 御明主様、大光明如来様数々の御守護を戴きまして誠に有難う御座いました。この上共御救い下さいませ。入信の後の御守護の御報告を有りのまま致しました。色々と御導き戴きましたB先生、N先生、H先生誠に有難う御座いました。
 御讃歌
  観音の御救ひなくば吾は今底なき沼に悩みつづけむ

               (昭和二十七年三月二十九日)

絶対安静の私、歓喜の出勤

      兵庫県  S.I(37)


 謹みて御守護の御礼御報告申し上げます。昭和二十四年二月初め右肺浸潤となり、全快までは一年半位では難しいとの診断で勤めを休み、絶対安静せよと言われるまま家にて療養をしており、その間気胸療法をして、時折ビタミン注射をして日を送っておりましたが、一向に熱も引かず、三十七度より三十八、九度を上下しておりました。十一月も過ぎ早や十二月、来る日も来る日も天井を眺め、細い俸給で栄養をとらねばならず、一家六人迫り来る正月を控え、病床にふさねばならない不安の明け暮れ、全く病貧争の生活でした。十二月中旬、ふと病気見舞に来てくれた知人(未入信)から、「手をかざして病気がなおる信仰が有るが」と奨められました。何の事やらさっぱり解らず、でもひょっとしたらと思う気拝も有り、「溺れるもの藁をもつかむ」のたとえのごとく、十二月二十日信者のFさんに来て戴きましたが、初めて見る手をかざす動作、こんな事で病気がなおるのか、と疑問やら不思議やらで、今から考えれば、何と勿体ない事を考えたものかと深く御詫び申し上げる次第です。

 浄霊して下さるFさんが両肺浸潤で御蔭を戴き、時折農事をしている姿を見て、きっとこの信仰でなおして戴けるものと思い、毎日毎日浄霊を戴いておりました。

 しかし信仰の道も日浅きがため、半信半疑の気持をどうする事も出来ず、一週間に一回か、十日に一回位気胸を受け、又浄霊も戴いておりました。

 その頃全く迷いに迷った事は事実でした。絶対信仰の道を進まして戴けるか、それとも医療で行くべきかの二筋道でした。しかし体はいつの間にか熱も下り体も軽くなり、お道の話を聞くにつけ、体温計も不要となりました。けれど一月中頃までに気胸を十五回やってしまいました。いよいよ一月末より不動の信念を固め、このお道にすがり切り、O支部のT先生の御指導をあおぐ事になり、二月十二日当時D大教会で渋井総斎先生より御守様を授けて戴き、入信の第一歩を踏ませて戴く事になりました。

 浄霊を受けている間の浄化としては、一晩下痢が夜中より始り、翌朝までにちょうど十回行った事が有り、自分でも驚く程のガスの浄化と痰の浄化が長い間続きました。

 しかし一旦このお道にすがり切っても職務上の関係で診断書を書いて貰わねば休んでいる事が出来ないため、十日に一回位医師の診断を受けました。中途で気胸を断ったため医師の機嫌を損ね「気胸を続けなくてどうして病気が治るんだ」と酷く叱られた事は一回ならず再三でしたが、とうとう私の根にまけ、どうでもなれという気持になったのかあまり言わなくなりました。又二月末頃レントゲン透視を行ったところ「肋膜に水がたまっている」との事で「この次に来た時は水を取らねばいけない」といわれ、又心配がふえ、どうしてこの水がとれるだろうかと心配しながら病院から帰って来ました。早速T先生におたずねしたところ、先生は「肋膜の水は浄霊をしていれば盗汗か小水となって出るから心配いりませんよ」と何気なく言われました。

 その言葉を信じ、毎日浄霊を続けて次の十日目病院へ行ったところ又透視をせねばなりません。心配する胸の中、その内自分の番が来た。暗室の中で十秒二十秒すると医師が「おや」と言うと私の名前を二度までも聞きなおし「水がないね。どうしたんだろう」と医師は驚いておりましたが、その医師よりも私の驚きの方がはるかに大きく、嬉しくて嬉しくてたまらない気持でした。初めて知る偉大なる浄霊の有難さを身をもって体験する事が出来ました。

 いよいよ三月末には御屏風観音様を御祀りさして戴き、間もなく妻も御守様を授けて戴き、光明一家となりました。光陰は矢のごとしとか、早や五月の声を聞き、青葉若葉の六月初め、レントゲン写真を撮ったところ、意外にも全快の域に達している事が判りました。そして医師より「明日から勤めに出てもよろしい」と言われた時は実に驚き、これ程早く治癒さして戴いた明主様の御加護に感謝申し上げ、H先生、T先生始めF様、N様方々の親身も及ばぬ御指導が身にしみ、終生忘れる事の出来ない思い出の一日でした。

 そして七月三十日光明如来様を御奉斎さして戴きました。病にたおれし当時を想いうかべ、医薬の絶えた事のない家でしたが、今は遠い夢のごとく、毎日心配なく一家六人、二年間を無医薬で過さして戴いております。また当時この偉大なる御救いの力を知らせて戴きませんでしたら、私は苦しみのまま生か死か、どうなっていた事で御座いましょう。

 この事を想います時、偉大なるこの御浄霊を、あらゆる病苦のために苦しんでおられる方々に御知らせさせて戴きまして、一日も早く明主様が唱えられておられます病貧争絶無の世界、即ち地上天国の来たらん事を御念じ申し上げさせて戴きますと共に、偉大なる御神業の万分の一なりとも御手伝出来ますれば無上の光栄と存じ、精進させて戴いております。

  ”観音の御救ひなくば吾は今底なき沼に悩みつづけ

明主様誠に有難うございました。拙文ではございますが心より感謝申し上げる次第であります。
        (昭和二十七年一月一日)

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