岡田茂吉 『文明の創造』科学篇 「寒冒」 (昭和二十七年) | 岡田茂吉を学ぶ

『文明の創造』科学篇 病気とは何ぞや「寒冒」 (昭和二十七年)    

  愈々(いよいよ)之から病気に就(つい)ての解説であるが、現代医学の解釈は、人体を単なる物質と見做(みな)して、唯物療法を進歩させて来た医学は、どの点に最も欠陥あるかを、順を逐(お)うてかいてみるが、それに就いては先ず、実際の病気を取上げて説明してみるのが、最も判り易いからそういう事にする。

 先ず、人間として、何人も経験しない者のない病としては寒冒であろう。処が寒冒の原因は医学では今以(もっ)て不明とされており、近来僅(わず)かに発見されたのが、ヴィールスによる空気伝染とか、アレルギー性によるとか言われている位で、吾等からみれば問題とするには足りない稚説である。此(この)説も近き将来無意味とされる事は間違いあるまい。

  抑々(そもそも)、人間は先天的に種々なる毒素を保有している事は、医学でも認めている。例えば天然痘、麻疹、百日咳等は元より未知の毒素も色々あるであろう。処でそれら毒素は自然生理作用が発生し、外部へ排泄されようとする。これを吾等の方では浄化作用と言う。そうして毒素は、最初一旦人体の各局部に集溜する。其場合神経を使う処程多く集まる。人間が最も神経を使う処は、言うまでもなく、上半身特に頭脳に近い程そうである。人間が目が醒(さ)めている間手足は休む事はあっても、頭脳を始め、目、耳、鼻、口等は一瞬の休みもない。としたら毒素集溜の場合もそうであって、肩、頸、淋巴腺、延髄、耳下腺附近は固(もと)より、頭脳が主となっている。此様に各部に集溜した毒素は、時日を経(へ)るに従って、漸次固結する。それが或程度に達するや、排除作用が発生する。ここに自然の恩恵を見るのである。何となれば固結の為、血行が悪くなり、肩や頸(くび)が凝り、頭痛、頭重、視力減退、耳の鈍聴、鼻詰まり、臭覚の鈍化、歯槽膿漏、歯牙の劣弱、息切れ、手足の弛緩、腰痛、浮腫等々により、活動力が減殺されるからで、それが為人間本来の使命が行われない事になる。それで造物主は病気という結構な、浄化作用を作られたのである。

 右の如く、毒素排除作用の苦痛が病気であるとしたら、病気こそ浄血作用であり、健康上最も必要なもので、神の恩恵中最大なものというべきである。故に若(も)し人類から、病気を取除いたとしたら、人間は漸次弱って、遂には滅亡に到るかも知れないのである。処が私は、病なき世界を造るというのであるから矛盾するように思うであろうが、これは根本的に異っている。というのは人間が無毒になれば、浄化作用の必要がなくなるから、共に病気もなくなるのは判り切った話である。此意味に於て私は、之から出来るだけ解り易く徹底的に説いてみよう。

 話は戻るが、固結毒素の排除作用を、私は浄化作用と名付けたが、先づ初め感冒に罹(かか)るや発熱が先駆となる。自然は固結毒素の排除を容易ならしめんが為、熱で溶解させ液体化させる。此液毒は速かに肺に侵入するが、此作用は実に神秘であって、例えば吾等が浄霊(之は療病法の名称)によって、固結毒素を溶解するや、間髪を入れず肺臓内に侵入する。其場合筋肉でも骨でも透過して了うのである。何より身体各局所にある固結毒素(以下毒結と称す)が、普通一、二箇所位なら軽い症状で済むが、局所を増す毎に重くなる、最初軽いと思った感冒が漸次重くなるのは、その意味である。

 右の如く、液毒は迅速に肺臓内に侵入し、希薄な場合は痰となって即時排泄されるが、濃度の場合は一時停滞し、咳というポンプ作用を待って、間もなく気管を通じて外部へ排泄される。咳の後には必ず痰が出るにみても明かであり、嚏(くしゃみ)の後に鼻汁が出るのも同様の理である。又頭痛、咽喉(のど)の痛み、中耳炎、淋巴腺炎、手足の間接や、鼠蹊腺(そけいせん)等の痛みは何れも其部にあった毒素が溶解し、出口を求めようとして動き始める。それが神経を刺戟(しげき)するからである。そうして液毒は濃い薄いが出来る。濃いのは喀痰(かくたん)、鼻汁、下痢等になるが、極く薄いのは水様(みずよう)となり、盗汗(ねあせ)や尿によって排泄される。此様に浄化作用なるものは、最も自然に合理的に行われるもので、造物主の神技に感嘆せざるを得ないのである。一体造物主即ち神は、人間を造っておきながら、病気などという人間を苦しめ、活動を阻害するようなものを与えられる筈はなく、常に健康であらねばならないのに拘(かか)わらず、人間が誤った考えで毒素を作り、貯溜させるので、止むなく排除の必要が発(おこ)る。それが病気であるとすれば、寒冒の場合も何等の療法もせず、自然に放任しておけば完全に浄化が行われるから順調に治り、健康は増すのである。此理によって人間は出来るだけ風邪を引くようにすべきで、そうすれば結核などという忌しい病は跡を絶つのである。

 処がどうした事か、何時の頃からか不思議にも、右の清浄作用を逆解して了(しま)った。そこで発病するや極力浄化を停めようとする。何しろ浄化の苦痛を悪化の苦痛と間違えたのだから堪らない。其為熱を恐れて下げようとする。解熱すれば毒結の溶解が停止されるから咳痰(せき)を初め凡ゆる症状が軽減する。恰度(ちょうど)病気が治るように見えるのである。判り易く言えば、折角溶け始めた毒結を元通り固めようとする。其固め方法が医療なのである。氷冷、湿布、薬剤、注射等すべてはそれであって、全部固まると同時に症状が消失するので、之で治ったと思って喜ぶが、何ぞ知らん、実は折角掃除をしようとする其手を抑えつけるようなもので、之は事実が証明している。よく風邪が拗(こじ)れるというが、之は人体の方は浄化しようとするとそれを止めようとするため、つまり浄化と非浄化との摩擦となるから長引くのである。一旦風邪が治っても、暫くすると必ず再発するのを見ても分るであろう。故(ゆえ)に結果から言えば、医療とは病気を治す方法ではなく、治さないで延期させる方法という事である。従而(したがって)本当に治るという事は、毒素を外部へ排泄させ、体内が清浄となって、病気の原因が皆無となる事である。だから真の医術とは浄化が発った際、固結毒素をより速く溶解させ、より多く対外へ排泄させる事で、それ以外真の療法はないのである。

 右の理に対し一つの譬(たと)えをかいてみよう。即ち借金をしている場合である。段々利息も溜り、期限が来て返済を迫られるので、一時に払うのは辛いから、外から利子の金を借りて一時凌(しの)ぎをする。すると又期限が来たので又借金して一時免れをするという工合で、元金の外に利子も段々増え、請求も厳しくなるが益々返金が出来なくなる。そこで貸主は承知せず、差押え、又は破産の訴えをするが、返済が出来ないので破産する。つまり感冒も之と同様で、最初の返済期が来た時、苦しくとも払って了(しま)えばそれで済むものを、辛いから借金を増しても一時免れをする。それが薬を主とした医療である。従って引延ばす毎に毒素が殖え、遂に一時に請求をされる事となる、之が肺炎である。処が貸主も相手の支払能力を考慮し、緩慢(かんまん)な請求をする、之が結核と思えばいいのである。

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