精神病(2)『アメリカを救う』※御蔭話

絶望の精神病癒えて  

広島県  Y.S (37)


 妻H事昭和二十五年十月二十二日に次女Mを出産後四十日目の夜中、突然大声を発し、以後精神病となり、歌うやら踊るやらでしたが段々悪化致し、夜中でもちょっとの隙を見て戸外に飛出したりする事も度々でした。又家の中では障子襖を破り、目もあてられぬ程あばれ廻り、私は一睡も出来ぬ夜が続き、泣いて日を送りました。その間付近の医者はもとより、精神病院等人が良いと言われる事は全部致しましたが何の効果もない許りか、病人は益々悪化致し、氏神様やお墓等へ行っては色々悪い事をして平気で笑うような有様でした。ああこのように手を尽しても治らないのか、世の中に神や仏はないものかと一時は世を呪い神を恨む様にさえなりました。その時に親類のおばさんが来て「こんな病気は一晩で治す人がある」との事、これこそ神の救の言葉と信じ、見て貰う事にして翌日来て貰ったのが七十過ぎのおばあさんでした。その人と家族皆で一晩中お祈りをして後、言われるのには「気の毒ですが駄目です。この人は産後の穢れし身で風の神という大切な神様を足で蹴散らしているから、その神様の立腹は大したものだから助からない」と。その時思わず私は大声で泣きました。あらゆる事をしてそして最後に神の救いの言葉と信じてやった結果「助からん」という言葉。「鳴呼、私の真心が神に通じないのか」と一時は暗黒の底に落された様でした。しかしどうしても病人を全快さすのが私の務だと元気を取戻して、又鍼、灸、マッサージ等をやりましたが、何の変化もない。この上は時期を待つより道はないと思っている時、隣村のSさんが来て言われるには、「今私の家に来ておられる先生は手をかざしていかなる病気も治されるから一度見て貰っては」との由、私も迷いに迷い続けていたので何がそんな事で治るものか、真平だと一時は思ったのですが、妻の病気を全快させたい許りに、もう一度迷って見ようという気になり、来て戴いたのがK先生でした。早速に御浄霊をして戴き、その夜はお泊り願って救世(メシヤ)教の偉大なる話を承り、私も入信させて戴く気になり昭和二十六年四月三日に入信致しました。以後K先生に熱心に御浄霊を戴き、入信間もない私も熱心に浄霊している中に、あれ程悪化していた病気も、日に日に良くなるではありませんか。私は妻の良くなる様子を見るにつけ鳴呼偉大なる御力と頭が下る許りで、最初疑った事が申訳ないようになりました。そして御蔭で四月の末には大体正気になった様子でしたが、その後も一生懸命御浄霊をさせて戴いている内、猫の手も借りたいような農繁期には全快致し、その上手伝ってくれるようになった姿を見た時は、思わず「明主様有難うございました」と大きな声で叫びました。思えば発病以来半歳有余の間、暗黒の世界より光明の世界へ御救い戴きまして、私の喜びは言うに及ばず、家内一同ただ明主様の偉大なる御力に感謝致しております。有難うございました。この上は微力ながらもこの教えの光の道に粉骨砕身努力致す考えで御座います。この偉大なる明主様に私のごとき浅学なる者は何と御礼の言葉を申して良いか判りません。ただただ有難く有難く感謝致しております。
 明主様、有難うございました。 (昭和二十七年一月七日)

御神徳により精神病救わるるまで

        富山県 A.T (26)  


 明主様、日々の御守護有難う御座います。この度は既に絶望の境地より御救い頂き、尊い御神業を分らせて戴いた喜びを、包み切れぬままに世間の人に告げたいと思い、拙い筆を執らせて頂きました。

 私がこの家へ嫁いでから七年になりますが、日頃主人はとても体が弱く、毎年毎年季節の変り目には、必ず一週間ないし二週間、長い時は一カ月余も床につき、医者の絶間のないくらいでした。昨年暮から又も床につき、毎日三十七、八度の熱が四週間余続き、医者は「結核の熱だから注射もあるが、これくらいならパスをのめば大丈夫でしよう」と言われ、三週間もぶっ続けに一日五回ずつのませ、その外に明神様へもお参りしておりましたので、そこから下して戴きました薬と一日に十数回ずつのませておりました。

 それには皆お金が要りますので、父に話しましたら、「そんなに薬のんだばかりが良いものでない、医者に掛っておればそれで良いだろう」と言われたので、母が心配をして又お参りに行きますと、「もう十日間のみなさい、もう一週間」と言われますので、神様のおっしゃる事には間違はなかろうと、又心を持直し、無理して父にお願いしたり、私としては看護の傍から、内職をして少しずつ蓄えたお金を出しては、どれ位の薬を買ってのませた事でしょう。それでも熱は少しも下りそうにもありませんでした。

 「一方の医者に掛っていても治るにきまった事がない。医者を替えて見れば」という事になり、医者を替えましたところ、熱は一日で下りましたが、今度は一晩一晩と一睡も出来なくなって仕舞いましたので医者に話しましたら「お薬でよくして置きましょう」と言われました。

 明神様へお参りしますと「神経衰弱ですから本人にいろんな思いをさせないようにして、世間話などしてあげなさい。今が一番おもりの大事な時です」と言われますので側で色々話して見ましたが、本人は胸をつかれる思いで私の話など耳にも入らなくなりましたので、又お参りしましたら「この上は神経衰弱症の注射が出ておりますからそれでもして見られましたら」と言われましたが、近くにその薬がなく、主人は「胸をしめつけられるように苦しい、もう生命はない、死んでも助けてくれ、畜生道へおちなければならない、ああ恐ろしい、最期だ、最期だ」と獣のような恰好をし、御飯の食べ方は人間なみではなく無我夢中、家の者は皆御飯も咽喉を通りません。母は前々から噂に救世教のことを聞いていましたので、「最後となれば一度だけでもM先生に見て戴いて、それで駄目なら諦めようもある」と言って見にいって来て下さいましたところ、先生は快く来て下さいました。私は聞き初めで、見初めの事ゆえ、目を丸くして見ておりましたが、今までの経緯をお話してから、先生の顔色を伺いました。先生は「主人は必ず治る」とはっきりとおっしゃって頂きましたのでその時の私の気持、何と申し上げてよいのか胸が一ぱいです。今日が日まで、こんなにはっきり「治る」と言われたことは、未だかつてなかったので本当に嬉しく、早速夫の父に話しましたが入信は許されませんでしたが、治ってさえ貰えばそんなお金位ではないと思い、実家に飛んで行き話しましたら「それ程一生懸命に頼むなら貸さない事もないが、救世教(当時は観音教)は昨年ひどくやられたそうだよ。人の耳に入るような事はしてくれるな」と言って、貸して下さいましたので、早速先生に御願いし、主人と二人入信させて戴く事になりました。

 先生は「高岡の本部までお守様をお受けに出て戴かなければならないのですが、止むを得ない場合は本部の先生に来て戴きますが」とおっしゃいましたので、お願いして副会長先生に家まで足を運んで戴き、二月二十三日に入信させて頂きましたところ、先生が駅にお着きなさいました頃よりそこら辺にある手拭や細紐等で二、三回も首をしめる動作等をし、先生からお守様をお受けしてから御浄霊をして頂きましたところ、「住吉大明神に悪い事をしてしまった、あやまりに行かなければいけない」と益々動作がはげしく、わからない言葉をわめきたて、夜中になるとよけいに激しく、自分等には何を言っているのか少しもわからず、どんなにか困った事でございました。M先生に来て頂きさえすれば、その私共のわからない言葉を本人の気のむくように話して下さいますので、段々静まりますのでほっとしましたが、数時間も経てば又同じような動作が始りますので夜も眠れなくなり、子供に手が要りますので、先生の前でつい「ああ辛い」といいましたら先生は笑いながら「ここ三カ月か半年と一生とを代えられますか」とおっしゃいますので、本当にそうだと思い直しました。

 先生は父に「姉さんは子供もあるし、親である以上入信して一生懸命に御浄霊をして上げて欲しい。私も家庭を持つ以上家へ戻らなければならない」と言われましたが、父は頑として聞いてはくれませんでした。実家の父が来てくれましたので話しましたら「それは一生懸命になって貰いたいものですね」と言ってくれましたので、父もその気になってくれました。早速入信して御浄霊をしてくれましたが、中々良くなるどころか悪くさえなるような気がしましたので、家中なお不眠が続き、父が親戚へ行き話しましたら、「それは昔の事だ、こんなに医学が進んでいるのに病院へ入れた方がよい」との事で、ある日病院へ聞きにまで行かれましたら、本人は又々より以上の動作が始り、「もう病院へ行くのだ、お前等はだますのだ」と言い出し、中々落着きませんでしたが、先生は「もう一週間もしたら少しは落着くでしょう」と言われましたので、私は父に「せめてもう一週間ないし二週間程辛抱して下さい」とどんなにお願いした事でしょう。

 それからは少しは機嫌のよい日もありましたので、M先生のお宅の大光明如来様の前に二、三日宿泊させて頂き、御浄霊をして頂きましたところ日一日と恢復に向い、初めてくらやみの中に光明の射しこんだ気持でございました。田植前よりようやく田の手伝もして戴けるようになり、ただ嬉しいやら有難いやら、神様の偉大なお力に感謝感激の日を送らせて戴いております。

 入信後十カ月になりますが私の実父も医学で手術しなければいけないという腸癌の手術もせずに済み、入信させて頂き御浄霊をお受けし、今ではとても良くなったと喜んでおります。十一月には御屏風観音様をお祀りさせて頂き、種々御利益を頂き、私がこの家に住むようになってから初めての幸福な日が、春の陽光のごとく訪れて参りました。世の不幸な人々も、一人でも多くこの尊き御教にお縋りなさらんことを祈って止みません。 明主様御守護有難う御座いました。謹んで御礼申し上げます。
        (昭和二十六年十二月十八日)

娘の精神病かくして救わる

岡山県    T.T (43)

      
 昭和二十六年一月に娘を嫁入させました。娘も平素から元気で仕事も良く致しますので、先方の皆様の御気に入りでしたが、突然九月十七日の朝先方の父親がおいでになり、お話しなさるのに、「Fは良く仕事をしておりましたが、十六日朝の事一人で元気よく山へ草刈りに行きましたが、しばらくして帰ってきました。その時の様子が大変です。どうした事か朝の元気は全然有りません。顔面蒼白となり一家の者が非常に心配致し、何を言っても返事もせず無言のまま頭を下げ、何か考え込んでいるような素振りをして坐ったまま動きません。こんな有様ですから、早く来て下さい」と申されます。そのお話を聞き、私は何かに突き当った思いで大きな息が出ました。胸に手を当て、ああこの時です、神様にお願いすれば何でも御守護を戴かれるのだと、思わず知らず胸を撫で下しました。私は「それでは早速参ります」と先方の父親に申しました。近所で御熱心な信者さんのKさんに相談し、Kさんと二人で行きました。午後二時頃中鉄バスにて三里半程の道を行きました。先方に行って様子を見ますに、御話の通りの娘の様子ではありませんか。私とKさんとは何回となく御浄霊を続けさせて戴きました。娘も私を見た時は母という事が判ったようです。又急に実家へ帰りたい様子を見せますので先方の皆様が見られて「本人もお母様が参られてから帰りたいようですから、一緒につれてお帰り下さい。そして神様にお願いして早く御蔭を戴いて下さい」と申されます。私はKさんに相談致しました。Kさんが申されますには「お宅の皆様が、あのように申されるのですからここではいけないと思いますから、神様の前で御浄霊をさせて戴くのが一番でしょう」と申され、「それでは」と娘を連れて帰る事に決めました。十九日朝の事です。なんにも判らない娘を連れ帰途につきました。歩こうとしない娘を皆様の手で何丁かの道を列車の時間に間に合うようにと念じつつ出掛けましたものの、中々歩かない上に、履物はぬぎ、後へ後へとつっぱり前に行きません。右手と左手の下に二人の者が手を入れ、娘の身体をつり上げるように致し、後の人は背中を押しますが中々思うように行きません。仕方なく背負っても見ましたが重くて長くは行けません。そうしている内に時間が過ぎそうになりますので、どうして良いか判りません。「列車の時間に間に合いますでしょうか」とKさんに申しますと、Kさんは「神様にお願い致して有るから大丈夫です」とおっしゃいました。そうする内に、とうとう駅に着きました。時計を見ますと、七時前を示しております。神様に有難うございますと心の内でお礼を申し上げました。その時は車内が非常に込み合っておりましたが、御守護を戴き娘の坐る席だけが有りました。やがて汽車は金川駅に着きました。中鉄バスまで行き時間を見ますと、自動車が五分間すれば来ます。自動車の中も、又お蔭で腰を掛けさせて戴きました。御守護により、道中を無事に帰らせて戴きました。娘も生まれた家に帰ったという事は判っておるようでした。ちょっと休みましてKさんがこれから御神体にお参り致しましょうと、娘の手を取り、行こうとしましたが、中々行く気になりません。無暗に引張り神様の前にて御浄霊をさせて戴きました。その日からKさんの御宅で娘と私は神様の前に寝泊りさせて戴き、毎日皆様の御浄霊を何回となく戴きました。有難い事です。そのうちに少しずつ水やお茶を飲んでいましたが、何も咽喉を通らなくなりました。夜は盗汗でびっしょりです。何回となく着物を取りかえる日が七日続きました。いよいよ昏睡状態になってしまいました。顔の頬骨は立ち、胸の肋骨が何本あるまでありありと判ります。腹はぐっと落ち込み腰骨が立ち、カマキリのごとく足は細く骨に皮を張ったようです。顔色は青ざめ、丸でこの世の人とは思えません。私のかわいい娘もこれまでの一生か、ここまでの命であったのかと思いました。九日目の事です。口をもぐもぐ動かしておりますので、何か欲しいのでは無いかと思い、小さい匙にて水を少し口に持って行きますと、その時初めて神様が水を通させて下さいました。その時の有難さは何とも言えませんでした。それが元となりお茶や水ばかりで無く、少しずつ果物や食事までも食べさせて戴けるようになりました。段々と量も増えて行きます有難さを神様に御礼を申し上げました。K様に何回となく夜昼御浄霊戴きました。身体も一日一日元気が出て参ります。骨ばった体も少しずつ見よくなって行きます。家の中をここそこと歩むように元気づいてきました。夜も段々と休ませて戴くようになりましたが、そうかと思うと夜中に立ち上り、両手を前に出し手首を下におろし、手をピリピリとふるわし、寝衣のままでここそこと歩いた時は、幽霊そっくりの姿でございました。物凄い夜も御座いました。救われていない祖霊が憑ったものと思われます。ブツブツと何か申します日が何日となく続きました。そうかと思うと畳に指で、くねくねと線を引く形を致すようなこともありました。その中に月日の流れは早いものです。一カ月近い日は過ぎ去りました。

 十月十四日、十五日の氏神様のお祭が間近になりました。一カ月ほどK様の宅にてお世話になりましたが、お祭には娘を連れ帰り、お祭をいたしました。帰りましても別に悪くもなりませんでした。教会の諸先生にも何回となく御浄霊を戴きました。二月五日に光明如来様を御迎えさせて戴きました。皆様が遠路わざわざ御出下さいまして御浄霊を戴いております。「少しも食べなかった娘がここまで御守護を戴いて元気になった、何でも神様お願い致します」と私は一心でした。Kさんが時々面白い事を申されると大きな声を出して笑うようになりましたが、話は出来ませんでした。便所に行ったら行ったきりで帰る事が出来なかったり致しました。岡山市H教会にお参りさせて戴き、この時が教会のお参りは初めてでした。教会でN先生の御浄霊を戴きました。教会に四回お参りさせて戴きましたが、四回目の時にY会長先生に御浄霊を戴きましてからというものは、今まで鼻から何も出ておりませんでしたが、それを境にねばねばした鼻が出はじめました。

 話は変りますが、娘の嫁入先の皆様も初めのうちは神様が有難いと一心でしたから時々見舞って下さいましたが、余り長いので見舞にも来なくなってしまいました。神様を悪く思うように皆様の心が変りましたから、私はこれではいけないと思いまして、一気に帰らせなければ神様に申訳がないと、二十七年一月に役場で籍を戻して戴きました。

 その後次第次第に食事も進ませて戴きましたが、家の者と一緒に食事をするのを嫌います。一緒に食べずに後から一人で食べるのですが、早く申しますと盗み食いという有様、それが又二人分位も食べるのですから、私の驚きと心配は大変なものでした。体のためにも余り良くないと思い、食物を他所(よそ)に隠した事も一再ならずでした。その代り体は大変に肥えて参りまして、腰の辺は臼にこもを巻いたごとくでした。ある日のこと餅搗を致しておりましたら、無言のまま手伝ってくれました。その時は私は何とも言えない気持でただただ神様有難うございますと、嬉し涙が流れました。その後も御浄霊をさせて戴く毎に奇蹟を戴き、二十日間ですっかり御守護を戴き、二月の末には元の精神と身体とに全快させて戴きました。今は御神体も御奉斎させて戴き、一家一同楽しく安心な日々を送らせて戴いております。c村の皆様も神様のこの御力に目をみはっております。

 明主様、有難う御座いました。拙なき文を綴りましてここに厚く厚く御礼を申し上げさせて戴きます。
               (昭和二十七年七月二十九日)


精神分裂症の私御浄霊により救わる

       大分県 K.A (23)


 昭和二十六年二月下旬、木炭原木伐採中、過って約十間位の谷間に落ち、人事不省に陥りましたが、一緒に作業中の他の人に救われまして、身体も大して痛みませんので、午前中作業を続けました。昼食後から急に各処が痛み出し、そのまま病臥の身となり、発狂状態となりました。五、六日経過後、神様の御導きか御恵みか、突然世界救世教N中教会O町支部のS先生が来られ、御浄霊をして下されましたところ、大変頭の気持がよくなり何だか自分にかえったような気持になりました。二、三日過ぎて、又先生がおいで下されまして御浄霊をいただきましたところ、すっかり良くなりました。その後約一カ月位は頭が重い事もありましたが、精神が分裂するような事もなく、漸次恢復して家業が出来るようになりました。現代医術では到底かくのごとく短時日にては恢復せず、狂った人間として、私は勿論一家は不幸の生涯を送るはずで御座いました。余りの有難さ身にしみまして三月八日入信させて戴きまして、ただ今毎日家族の者の御浄霊をさせて戴いております。近所の人々も時々しております。言い知れぬ数々の御利益を戴いておりますが次期に報告します。
 明主様、大光明如来様有難う御座います。これからは農業の傍ら、病苦に悩む方々を一人でも多く御導きして、御神恩の万分の一にも報ゆる覚悟で御座います。拙文をもって御利益の一端を報告さして戴きます

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