『自観叢書』第3篇 「霊界叢談」 を掲載しています。 ▶️

「南無諦め宗」(御発表)


 この次は、外の方面へ向けて、狂人製造宗というのをやるつもりです。
 観音運動の目的はただいまお話した通りでありますが、観音運動の最後の目的たる人間を良くする、当然のことをする人間を造ることは、非常に簡単であってなかなか難しい。なぜかと言えば、いままでのものは、人間が当然なことをしなかったために、どっちかへ脱線する癖がついている。その癖を直すのが観音運動にもなる。観音運動はご承知の通り、観音様はどちらへも片寄らぬお働きをなさる。男でもなく女でもなく、日でも月でも、また火と水のお働きをなさる。火と水両方合わしたもの、ちょうどお湯で、人間を湯へ入らせるように、いい気持ちにさせる。これは先だって言ったことですが、ちょうど気候で言えば春と秋で、寒からず暑からずという具合です。
 これが人間の行いになり、心になればよろしい。どういう行いかというと、どっちへも片寄らぬ、極端にならぬ行いで、いままでの宗教とは、その点が反対なほど違う。いままでの宗教は、非常に熱心になるほど極端になる。狂人じみてくる。狂言になる。そういう信仰になると、外でみるとおかしい。それですから親戚知人からは反対され、結局信者だけの付き合いになって、それで神様の思し召しに合ってると思う。ところが観音行は信仰が進むほど、信仰してるのかどうだか判らなくなる。この点が判らぬことで、要するに味噌くさくなくなるわけであります。たとえてみれば、その時とその場合とその相手によって、千変万化し、ちっとも主義とか決めるとかいうものはないのであります。
 陽気が変わるように、天が晴れたり曇ったりするように、水の流るるごとく少しも拘泥してはいかぬ。

  天地の諸の動きの狂ひなきは観音行の鏡なりけり

 森羅万象、天地一切、あらゆるものの動きが観音行になっている。これを人間一切の行いにする。そうすれば永遠に栄える。それで人間が決めるところに天地自然の運行に反するから止まる。行き詰まる。ですから観音会はどこまでも栄える。天地一切の生成化育と同じことで、個人がそうなれば必ず栄えて行くにきまっている。その家はどんどんよくなる。天地自然の運行と外れることのないよう始終心掛くれば、だんだんそうなる。そうなるように人間は造られている。そうならないのは間違っている。人と話するにも、ちょうどそのときいい気持ちで聞ける話があり、それを話せば喜んで聞く。先方がまだその気にならないでおれば、時期が来ぬのですから話さない。四人五人と人がいても、その人達や、その場の空気によって言うべきことや、態度とか座り方などちょうどいい所がある。そういうことが判り、自然にそういうように行いができれば、魂の磨けた人で、根本はあくまで平和で行かなければならぬ。
 観音様は天国ですから、争いがないから、地獄的なことは絶対にいけない。争いなどの場合は観音行とはぜんぜん違う。ですから水浴びたりなどの荒行は観音行ではない。水浴びるのは、魚か亀の子か蛙のすることであります。日光浴などありますが、あれは亀の子のやることで、人間は天日に背を干すべきものではないと私は言っている。
 養生法でも食物でも、東京人はどういう物を食い、どういうふうに働くかちゃんとだれも決めない法則がある。規則書などにしても駄目なんで、まだまだ複雑な世界に、昨日と今日と同じ行いではいけない。  自然天然に観音様の守護を受ければ、ちょうどいい行いになる。で、非難もどうすることもできぬ。かえって世の中が狂えば非難されるかしらぬが良いものはどこまでもいい。床の間に置くべきものは床の間に置く。
 当然のことをするのはわけはないことで、またあるいは今日の世の中の人には難しいかもしれませんが、どうしてもそうしなければならないことになってきている。いまははっきり判りませんが、いずれはいままでの考えを持っていると、生存することのできないほどの時期が来ている。そうならなければ世界は本当にならない。物質文化のほうは世界は恒久の平和になっているが、人間の精神のほうは後れている。これを神様は急がれているんであります。
 個人をみて私は、その方の口のきき方挙動によってもよく判ることがある。その場、その時に合ってることを言う人は、よほど研(みが)けた人で、その場に外れてることを言う人がある。観音行に外れていて浄まっていない。
 こういうふうに、士農工商のあらゆる階級、親子兄弟から社長、技師、労働的の仕事をする人たちなど、各々自己の階級職業などにより、ちょうど合ってる社会ができる。そういう世の中ができれば、悪魔の目的はたいへん齟齬(そご)するんで、これをさせまいとする。その最も強力なのが共産主義で、上のものを下へ、下のものを上へ行かせ、社会を混乱させ破壊に導こうとする。これが彼らの目的で、今日の学校教育なども破壊し狂わせることを教える。学校へ行った子は、親に背くなどは、その思想にやられる。こういうことに対して観音運動は、狂わせないようにする。宗教そのものも狂わそうとしている。
 大本信者は喧嘩好きで、到る所で喧嘩する。そのくせいっぽうでは人類愛善運動などしている。これは自分達が神の選民と思わせる。そして社会の一般人よりは一等上だというのですから、社会の人間は眼下に見くだす。平民を見るような態度で、社会から特殊扱いにされると偉がる。またそういう人は団体中でも、信仰が進んでるなどと言われていばる。第一、教祖は三千世界の大狂人、教主は大化け物と、両方がそうですから、大いに狂人と化け物にならなければならぬというので、ほとんど狂人じみないと信仰が進んだと言えない。そしてあたりまえなことをすると、あれはまだ駄目だと言うのです。それで、その団体が気違いじみる。大本のみでなく他の各団体にもこういう団体はたくさんあります。これは悪魔が各宗教を通じて物を狂わせようとするので、その働きこそ実に恐るべきものであって、そういうような宗教と、後はぜんぜん無力な宗教との二種ですが、無力宗教のほうは売薬のようなもので見過してもいいですから、いままでの宗教は、真理だとありがたがった中にも、人心を狂わせようとする働きがたくさんあります。親鸞が言った「善人尚〔もて〕往生を遂ぐ、況んや悪人〔において〕をや」というように、悪を栄えさせるようなこと、ああいうようなことが各宗教にたくさんあって、生長の家で言う「物体は心の影なり」というのは、狂わせようとする大きなものであります。これも物を狂わせんとする一つの錯覚運動の極端な物質否定で、あの奥にはある悪魔がいる。ですからお気の毒だが滅びるんであります。
 もしみなの人がああいう思想になれば、せっかく発達した世界がどうなるかしれない。当然のこと、当然のものが本当のものなんであります。
 森羅万象一切に狂うものはない。草木の育つのも、太陽が出るのも、ちっとも狂わぬ。天地自然の運行は狂わぬ。悪魔は破壊しようとして、そのために人間を狂わそうとするのです。
 神様はこれを救われるわけであります。

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