「心臓病」(『アメリカを救う』 昭和28年1月1日発行)

 心臓病といえば、大抵は弁膜症の事をいうが、この原因は薬毒が心臓の周囲に固まり圧迫する為、脈拍不正、心悸昂進、呼吸困難となるのであって、この強烈なのが狭心症である。狭心症の特異性は激烈な痛みと呼吸逼迫で、その苦痛は見るに堪えない程である。そうして痛みは固結が溶解し、液体となって出口を求める為の神経の刺戟であり、呼吸逼迫は液体となった毒素が、心臓を周囲から圧迫する為であるから、これも薬を止めて自然にしていれば、必ず治るのである。

 不治の心臓弁膜症全快
  ―― 迷って知る医学の誤謬 ――

        宮崎市    N.Y (23)

        

  讃へても称へ尽せぬ大御幸筆も言葉も表はす由なき
                        (御讃歌)

 神様になんと御礼の言葉も御座いません。私は幼少の頃より体が弱く、少し悪くてもそれ医者よ薬よと、一人娘のため世の中の子供達より大切にされて、医学に頼りきっておりました者で御座います。京都在住中女学校に入り、学校で運動等の時、とても心臓が苦しくて他の友達と一緒に走れないように苦しくなり、悲しみの日々が幾年続きました事でしよう。今思い出しましても悲しい思い出ばかりです。

 女学校を卒業しましてからは別に運動もしません関係か、別に心臓が苦しいとも感じませんでした(健康人のように楽な心臓ではありませんでした)。京都より父母の故郷の宮崎に父母と共に帰りまして、宮崎郵便局に勤めるようになり、局の診療所にて診てもらった時に、医者が「貴女は心臓弁膜症だ、事務をしても無理な事は絶対してはいけない」と注意されましたので、今更ながらそんなにも悪いのか知ら、と私はびっくりしまして世の中が真暗になり、気持が落つかず、それからは又医者だ薬だと、あらゆる薬をのみ、あらゆる注射を打ち続け、生長の家にも入りましたが何の効果もなく、心臓の鼓動は益々激しくなるばかりで、結局郵便局も辞職せねばならなくなり、一年半にて退職し、療養に努めました。信頼し縋りきっていました医者からは友人を通じて「Yさんの心臓は死なねば治らない」との冷い言葉を聞かされまして、どれ程悲しみました事でしょう。何卒御想像下さいませ。今思い出しても実に恐しい事で御座いますが、当時自殺の決心までしておりましたので御座います。この私の心臓を救ってくれる人はいないものか? 医者が駄目ならまだ他に良い薬草でもあるかも知れないと思った瞬間、ふと思い出されたのが京都在住中の親友、Hさんの事でした。そうだHさんに何かよく効く薬草はないか聞こうと、最近の苦しみを訴えて久し振りで便りを出しました。Hさんのお母さんはとても優しい方で元日赤の看護婦長をしておられたので、何か良い薬をと思い出したので御座います。

 ところがHさんの返事は、意外にも「神様の道に縋れ」との事にて、私も又かという気持になりました。生長の家の事も御座いますので、直ぐには縋る事が出来ませんでした。ところがHさんの再三のお奨めによりまして、送付して下さいました『地上天国』と『栄光』新聞を読む気持になりまして、読む内にお縋りする心が湧き「宮崎市内の支部をお知らせ下さい」と御願い致しました。不思議なものでお縋りする気持になりますと、Hさんの御返事を待つのがそれこそ一日千秋の思いで、待ちに待ったお返事が参りまして、それによってM町K先生のお宅を紹介して下さいましたので、十月五日にぜひお話を聞いてみようと思い、飛びたつ思いでE支部に参拝しました。

 母と共に先生のお話を聞き、浄霊という事を初めてして戴きまして、それからは毎日バスにて通い始めました。十七、八日目で御座いましたでしょう。先生が「貴女の心臓は大丈夫治りますが、もしかすると左半身不随になるかも知れませんよ」とのお言葉に、若い者が半身不随などになるか知ら、と疑っていましたところ、二十一日目の十月二十五日の朝の出来事で御座います。普通に起床しまして朝食も終り、起きて長く時間もたたないのに、睡くてなりませんので、母に床を敷いて頂いてぐっすり休みました。十時頃目が醒めまして起きようと思い、起きかかりますが腰が立たず、左手左足に力がはいらず、どうもがいても起きられませんので、母を呼び、それから私は意識不明になりました。今から考えますと大変良い御浄化を頂きましたので御座います。それからは寝たっきりの重病人で、御食事も母の手、お不浄も母の手をわずらわし、毎日いらだたしい気持でK先生にも随分苦情を言ったりして、先生を困らしたもので御座います。腕どころか一本の指ですら動かないのですもの、悲しくなるのは当然で御座います。半身不随!年を取った方は三年も六年も、不随にて人手をわずらわせます。私はどうなるのでしょうか。私も三年も毎日悲しい思いをせねばならないのか知ら、と不安は次から次へと襲って参ります。生きた屍? ああどうなるのでしょう!私が倒れましてから二、三日して先生に対し「神様が娘をこのようにしたのだから一週間で治して貰いたい、それで治らないと警察に訴える」と父が言っていました。先生は穏かに微笑をたたえて、「浄霊の原理から浄霊のために溶解された毒素が左半身に廻ったので、これで心臓麻痺の危機を脱したのですから、決して心配は要りません。私が絶対責任をもちます。私も土地の者で親兄弟も皆います。絶対逃げ隠れは致しません。どうぞ安心して御縋りしていて下さい」と優しく説いて下さいまして、頑固な父もどうやら納得しまして毎日の浄霊を受けられるようになりました。それからは世間では普通薄紙をはぐようにと申しますが、私のは毎日厚紙をはぐように調子良く頭痛も取れ、腕の痛みも取れ、まず指先が動くようになり、次に一本ずつ指が動くようになり、五本の指全部にて握り締める事も出来るようになりました。「左足も動いた、足の指先にも力がはいるよ。お母さん、先生、私は嬉しい」と、神様への感謝はつきる事なく、毎日毎日が嬉しくなり「いつ坐れるだろう? いつ歩けるでしょう? いつお茶碗が持てるでしょう」等と、次から次への希望が湧いて参ります。毎日が楽しく一回の御浄霊毎に良くなり、先生も「効果の早いのに毎日が楽しみだ、実に有難い御守護だ」と喜んで、お寒い中を御足労して下さいました。愛と熱の真心そのものの先生のお姿が神様のように有難くて、毎日待ちこがれていました。医者でさえ頼り切っている時には神様のように見えるのですもの、私がそう思ったのも無理は御座いませんでしょう。

 まず母が十一月三日に入信さして戴き、次に御屏風観音様を奉斉し、御利益の早いのに父も驚きまして、十二月十五日に入信さして戴き、その月の十八日に私も光栄ある信者の一員に加えて戴きました。その頃は母に手伝って貰ってようやく歩けるようになりました頃で御座います。二カ月目には一人で便所に行けるようになり、一人で用便するようにまで恢復致しました。正月には親子三人にて食卓を囲み、お碗を左手に持って食事が出来まして誠に楽しいお正月を迎えました。生涯忘れる事の出来ない嬉しい一こまで御座いました。

 正月の十日の事で御座います。夜の十時頃久振りに心臓がとても苦しくなり、父に先生の教会まで自転車にて走って貰い(一里の距離)寒夜に御足労御願いしたので御座います。父は直ぐ走ってくれました。その折K先生は十日恵比須(隣組の交際)にて、三、四人の残客と酒宴を披いておられ、訪れました父に対し「Yさん、Yさんが又苦しくなりましたか。しかしもう大丈夫ですよ。貴方が支部に御願いに来られた事が神様に通じていますから、もう心配は要りません。Yさんは楽になっています。まあ参拝してお帰り下さい。私は心配はないと思いますが直に参上します。が、まあ一杯いかがですか」と言って先生が下すった杯を受け取ったなり、父は飲む気になれず気にかかるからと、直ぐ参拝して帰りましたそうです。先生が言われた通り、私は父が支部に到着する頃には楽になりまして休まして戴きました。父としましても偉大な神様だと、信仰を深める気持になって「すぐにでも御神体を奉斎したい」と母に話していました。その夜は先生も父の後を追うようにして御出になり、御浄霊をして下されて寒夜を又御帰りになられました。

 これまで御守護戴きまして、いかがしました事で御座いましょうか。二月のある日より私自身がだんだん分らなくなり、勿体ない事で御座いますが、神様を嫌うようになり、先生の御浄霊も嫌になり、先生自体も嫌になりまして平気で先生に向い「先生が一番嫌になった」と言うようになりまして、「Yはどうしたのでしょう、何を言うのです」と母親が心配し出し、母が私の口をつねった事も御座います(先生の御話では父が御神体を奉斎したい気持になったので、祀らしては困る邪神がいて妨害しだしたのだとの事でした)。私は「医学でなければ駄目だ」と言うように狂い出しまして、一番困ったのが母で御座います。長い間私の手となり足となって、懸命に一人娘のわがままを聞入れてくれ、どれだけ心を砕き心配をしている母でしょう。その母の心も酌まず、大恩あるK先生を嫌い出したので御座います。その時の母は泣くようにして先生に御詫び申し上げておりました。先生は「本人が言っているのではありませんよ、言わされているんですから心配は要りませんから」と母を慰めて下さいました。私の気持は「ヘン何だい。何が神様か、病人はどうしても現代医学でなければ駄目ですよ」「それでは、どうしてこんな短い日数で歩けるようになったのですか」と問われますと「それは自然ですよ、浄霊なんかではありませんよ、医学で治ったら先生なんか、いや先生ではない、あんたなんか土下座さして坊主にしてやりますよ」というように日増に悪口が酷くなり、「御浄霊なんかやめてくれ」と益々嫌うようになりましたので、先生も母と相談の上「暫く様子を見ましよう」と手を引かれましたので御座います。母一人はとても残念がりましたが、私がとても医者の診察を要求しましたので、仕方なくその要求を入れてくれまして、父に頼んでK町のT医師を迎えて診察をして頂きました。T医師の診察は「心臓が破れたから半身不随になったので、安静にしておればよくなる」と言って、一本注射をうって帰り、再度の往診の時も一本注射して帰りました。それから高熱が出だし、食欲は無くなり、歩ける事は勿論立つ事すら出来なくなりました。毎日毎日高熱が続き、母は日夜一睡も出来ず、氷枕の入替食事の事から大小便の事まで、一人でてんてこ舞で御座いました。私が半身不随になった時以上に多忙を極め、来る日も来る日も熱は下らず、今度はT町のA医師を迎えました。A医師は「弁膜がちぎれて半身に廻り、不随になったので、悪くすると足を切断しなければならない」とおどされました。それでは私が納らず、第三人目の医者A町のC医師の往診を乞いましたところ、一日に二回も往診し注射ばかりなし、都合十日以上も往診しましたが益々悪化し、最後に「お母さんには誠にお気の毒ですが、娘さんは助りませんでしょう。足も腫れましたしね、諦めて下さい」と二日にわたって話したそうです。それで長くはないと思った父は、葬式の準備までしていたそうで御座います。今でこそ笑話になりますが友達は香奠を包んでいたとの事で御座います。

 最後に死出の花むけにもと、県病院のM博士を御願いしましたところ、「肋膜と腹膜が悪くなっているからコンニャクを熱くして下腹部に当てなさい」と言われ、その通りにしましたが気持が悪く中止しました。エキホスも千円近くも買い横腹に貼りましたが、胸を締められ心臓が苦しくなるばかりで何の効果もありませんので、これも中止致しました。僅か一カ月位にて、あれだけ肥っていた体が驚く程痩せてしまい、誠に今日か明日かという危機にまでなってしまいました。三月のある日で御座います。医師が頭をひねるようになりましてから、矢張医学は駄目?浄霊でなければ駄目だと思うようになりまして、母に「K先生に御詫に行って下さい、矢張浄霊でなければ駄目らしいわ」と頼みました。母は「今更先生に御願い出来る顔がありますか」とたしなめましたが、幾度も頼むものですから(その時母はこれは助かるかも知れないと思ったそうです)急いで支部に参上し、先生に御詫して又御足労掛けるようになりました。先生が御出になったら何と御詫しようかと心配でなりませんでしたが、あのなつかしい先生のお顔を見ると涙が出て、何も言えませんでした。御出になった先生は「Yさん私も坊主にならずに済みましたね」とお笑になりましたのには穴があれば這入りたいようで御座いました。「大分痩せましたね。しかし心配しなさんな、又直ぐ肥って来ますよ。もう迷ってはいけませんよ。医学がどんなものか良く分ったでしょう」と優しくさとして下さいまして、私はどうしてこんな先生を嫌ったのか不思議でなりませんでした。もう絶対医学には迷うまいと決心致しました。それからは毎日熱心な先生の御浄霊を受ける体となりまして、食欲も出だし、勿論熱は直ぐ下り、手足にも力がはいり、一カ月足らずで起られるようになり、再び歩ける身となりまして感激致しております。時折浄化致しまして、吐血した事も御座いますし、毎日痰が四、五合位ずつ二週間も続いた事も御座います。その都度益々元気になり、左半身も軽くなって参りました。毎日運動を続けております。

 ただ今ではどんな遠道でも、心臓が苦しいと思った事は御座いません。健康人と少しも変りません。F支部及びR出張所の例祭、臨時祭等にも一回も欠かさず参拝さして頂き、熱心にお縋りさして戴いております。世間の人々は死の危機の状態から全快しました今日までの私の姿を見ながら「肥って顔色も良くなり綺麗になりましたね」と言いながら神の道に縋ろうとは致しません。実に情ない人達で御座います。この有難い御道にお導き下さいましたHさんに御礼申し上げます。又直接御指導下さいましたK先生や。O先生にも厚く感謝致します。

 明主様、大光明如来様誠に有難う御座いました。自分の体で浄霊と医学と対照致しまして、医学の誤謬が判然と分りました。何卒今後共御守護の程伏して御願い申し上げます。微力な私共で御座いますが、御恩の万分の一にも御報い致したいと毎日念願しております。拙き文にて何卒御許し下さいませ。
             (昭和二十七年三月一日)

十年間の心臓病も一カ月にて快復へ

     大分県 K.I (37)


 尊い神様のお救いにより、危い命を救われまして有難い日々を送らせて戴いておる者で御座います。私は十八歳を頭に五人の子供を恵まれ、末子の妊娠中に風邪を引き大変咳をしましたが、外の子供の時が余りにも元気がよかったので、さして気にも止めず農業に従事しておりましたが、日に日に身は重くなり、咳も益々激しく、子供が生まれたら楽になるからと家族の者や近所の人も言って下さるので楽しみに過しておりましたが、臨月が迫るにつれて息苦しく、腰より下が腫れて益々咳は激しく息は苦しく、我慢し切れないようになりました。

 遂に医者に掛り、診断の結果「心臓が悪いから暫くこの薬をのんだらよい」と言われ大嫌いな薬瓶をもらい、これが何より命の網だと思い毎日医者通いをしました。一カ月二カ月と薬は浴びるようにのんだ積りですが少しも良い結果は見えず、相変らずの病状が続き、かえって病気は悪化するような気持なので又医者をかえて見ましたが同じ事、あちらこちらと迷いましたが、何ら変化なきままに子供を分娩致しました。

 安心と同時に薬のお蔭もあろうと思い産後の静養で日に日に恢復するものと思っておりましたが中々思うように行かず、病気に弱い私なので到頭入院致しました。入院後は手厚い看護を受け、医者の言う通り仰向にて安静を守り、これで病気もすっかり治るものと思い、一カ月間ベッドの上で暮しました。やっと咳は止まり気分も良くなりました。これで病気は治ったものと思い退院致しました。そこで私も以前の身体になった積りにて農業に従事して見ましたが、やっぱり息苦しく自分で思うように仕事は出来ず、ちょっと無理をすれば前とかわらず、自分で自分を怨み、どうしてこんな病に罹ったものかと思うような不安な日が続き、夜になると子供の寝顔を見ては将来の事がとめどもなく連想され、死の恐怖におののかされ、先立つ我身はよいとしても子供や主人の事を考えると何とかしてもとの身体になりたいと身悶えすれど、いかんともなすすべなく、ただ病魔のなすがままに身をゆだねるより外に道はなく、主人もいろいろ心配してくれましたが運命の翻弄のまま八年の年月は経ちました。やっとの事で救いの御手を延ばして戴きましたのが昭和二十三年十一月。知人より手をかざして病気が治るお話を聞き、そんな事で病気が治るなど、余り簡単すぎて信じきれず、「この長年の病気が治りましょうか」とお聞きすると「長い病気は長くやれば治る」と言って下さるので、溺れる者は藁をも掴むという気持から、色々とお話を聞き早速長女君子を入信させて戴きまして、毎日御浄霊を楽しみに学校から帰るのを待ち手をかざして貰いました。一カ月も立つうちに日増に快方に向い、いつとはなしに病気を忘れる身となり、今更ながら広大無辺な御神力の及ぶところ、いかなる難病も癒される事を知らせて戴きました。

 その後主人の目に星が出来、末子が百日咳にかかり、M一人の御浄霊ではどうにもならず、私もお守様を戴きたくて堪らず、主人に無理に願って入信させて戴き、私がお守様を戴いたら家族の者は勿論、悪いという人は誰でも見当り次第に手を翳して上げようと思い、まず主人の目の病気と子供の百日咳を、夢中になって日に二回三回と浄霊をさせて戴きましたところ、主人の目は十四、五日で治りました。子供の百日咳は中々ひどく、私一人では何だか心細く、余り苦しむ時は病人の身でありながら子供を負って中教会に走りました。その度に会長先生並びに奥様より手厚い御浄霊を戴き、色々と有難いお道のお話をして下さいましたが、当時曇り多き私には一向に覚れず、毎日御浄霊を戴く内四十日は過ぎその間苦しみ続けた頑強な百日咳も全快し、御浄霊の御力の偉大なるを知ると共に、再三お参りを続ける中に、「あらゆる物は大自然の大愛に浴す」と言う有難いお言葉が胸に焼付けられ、この信仰なら燃ゆる火の中でも進む、という固い決意をし、御浄霊にて一つ一つ曇りを取って戴くより外道のない事を覚らせて戴きました。その後御用をさせて戴く傍御浄霊を戴く内に次々と浄化を戴き、浄化の度毎に身魂の浄まるのをひしひしと身に感じ、御先祖の罪穢の償いもさせて戴き、私の健康と共にわが家に光明のさすのを覚えました。主人や子供達の笑顔を見る度に浄化の有難さを身をもって体験させて戴き、もしこのお道を知らなかったらと思うと身の毛のよだつ思がし、現在では野良仕事は言うに及ばず、リヤカーに野菜を積み町に出掛けて行っては支部にて御浄霊を戴くのが楽しみです。その間主人、次女まで入信させて戴き、二十四年二月には光明如来様をお迎えさせて戴き、絶大なる御守護のもと御恩の万分の一にも届かぬ私ではありますが、お道のため地上天国建設のために御用させて戴きたく思っております。謹みて御礼と御報告申し上げます。

 明主様有難う御座いました。
              (昭和二十六年九月一日)

私の心臓病癒され、妹の盲腸炎も救わる

   千葉県  K.K (27)


 病気の苦しみよりお救い戴いて入信させて戴き、数々の御守護を戴き、明るい毎日を過させて戴いております。この度妹が盲腸炎よりお救い戴きまして、拙文をも顧みず御礼申し上げさせて戴きます。

 私の家は祖母と私と妻と妹と四歳の子供で農業を営んでおります。昭和二十六年三月二十一日山仕事に出掛けようとして自宅の角まで出ますと突然心臓に異常を来し動悸は激しく結滞の方が多く、このまま止って終うのではないかと思われる程でした。一週間後病院にて診断の結果「心臓筋肉痙攣症」だとの事、そして「心房が左側の方へ腫れて大きくなっているから早速入院加療した方が良いでしょう」と言われ、今まで病気らしい病気はしなかったので割合鈍感の方で、遅くも二、三週間もしたら退院出来ると思い、早速十七日入院致しました。毎日「カンフェナル」の注射と一日三回の散薬で、二、三週間と思っていたのが、一カ月過ぎ二カ月過ぎても全然良くならず、反って悪化したようにも思われ、自分の病気は苦になるし、陰鬱な病院の床に伏しながら、農家の手不足の事を考え、神経は益々鋭くなって来ました。夜もろくろく眠られず、夜中の十一時頃より一時頃の間になると一日おき位に苦しみました。ちょうどその頃親戚のS様がお見舞に来られ、救世教のお話をして下さいまして、お話だけでも聞かれたらと言われましたが、その当時はただ「ハイハイ」と返事ばかりで内心笑って気にも止めませんでした。それから一カ月間、医師と医薬に頼っておりましたが効果なく、日夜悶々としているある日、突然妻が『地上天国』と『栄光』新聞を持って来て「これを借りて来たから読んで見たら」と言いましたが、笑って取合わなかったのです。六月二十四日、病院の近くのTさんが見えられ「手をこうやって病気が治る」と手まねをしてくれました。「私も毎日学校(水産高校)へ行って友達のちょっとした怪我など面白い程治るので、未入信の人も友達もとても信用している」等のお話を聞かせて下さり、最後に「私の家は本屋ですから雑誌でも見ながら遊びに来ませんか」と言われ、ふと行って見る気になり、午後出掛けて見ました。高橋さんのお宅まで二、三百米ですが、入院以来初めて歩きました。同家に着いた時は立って居るのが精一杯でした。何しろ苦しいので一度御浄霊というのをお願いしました。四十分で次第に心臓の動悸も治り、今度帰る時はなんの苦痛もなく、あれほど笑っていた宗教なるものにその日から「何かある」と直感致し、自分も良くなりたい一心で毎日お願いに上りました。一カ月後は相当長く立っていても、たいして苦しくもなく心配にもなりませんでした。七月二十六日より支部に行きましたが、相当自動車にゆられても心臓の動悸も起らず全く不思議でした。お蔭様にて真理の道を分らせて戴き、人間の幸福になる道を御教え戴き、何の不安もなく感謝感激で有難いお守様を拝受致しました。お蔭様にてお救い戴き軽い農事に従事させて戴いております。一人でも多くお救いさせて戴きたいと近所の人を御浄霊させて戴いております。去る三月十日支部へ御浄霊に行って帰宅して見ますと、妹が一時間程前から腹痛にて休んでいると聞き、普通の腹痛位に思い約三十分位御浄霊致しますと、その間に「痛む部分が段々右下腹に固まり、吐気があり右下腹部が突張るように痛い。胃の部分にも相当な痛みがある」と言います。これは盲腸炎ではないかと思い、一心にお念じしつつ局部を御浄霊致しました。そのまま楽にして戴き、山の中で夜中のこと故翌日支部にお願いに行き、N様が早速出張下さいました。夜分もし痛んだり苦しんだりしては、と心配になって、一晩お泊り戴いて御浄霊を戴き、四日の午後にはけろりと治りました。家の人達は「何だか不思議過ぎて判断に苦しむ」と言っておりました。もしこのお力を戴いていなかったら、この浄化作用を知らなかったら、それ医者、それ手術という事になったでしょう。それを考えます時、何と幸福な事で御座いましょう。私も病院生活よりお救い戴き、毎日感謝で一ぱいでした。そのうえ人を治させて戴く事の出来る身体にして戴き、御力の偉大なる事を身をもって体験させて戴きました 明主様有難う御座いました。厚く御礼申し上げます。この上は一人でも多くお救いさせて戴きますよう働かせて戴きます。有難う御座いました。
             (昭和二十七年四月十五日)

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