七月十六日
【御教え】
今まで結核問題の方が、美術館や何かで、『文明の創造』も書きかけになっていたが、やっと暇が出来たので――暇が出来たというより、気持がゆったりしたのでまた書き始めたのです。それについて書き方を幾らか変えてやろうと思って、「序文」の最初のーー先ず基礎的という様な、そういったものを二、三書いてみたので、一寸読ませます。


まだ仕上げが出来ていないから、幾らか分り悪いでしょうが、大体の意味は分かったと思います。これは誰でもですが、悪というのは何故あるのかという疑問ですが、こういう質問をされた事がある。神は愛だ、慈悲だ、と。それなら、罪を裁く――罪を裁くといえば、人間が苦しむのですから、神様の慈悲だとしたら、最初から悪を作らないで、罰を与えたり苦しめたりしなければ良いではないか。それでは、神の慈悲という事が、どういうものか解らない。という事を時々質問した人がありますが、それは全くそうです。で、私は言ってやったのです。私は悪を作った神様でないから、どういう訳で作ったか分からない。その神様に聞いてみるより仕方がない、と言って逃げたのです。そういう訳で悪はどういう訳であるかという事が分らないのです。それを分からせる為に最初は必要であった。要するに必要悪です。今までは悪があった為に物質文化が発達したのです。もし悪が無かったら、人間はまだまだ――智恵もこれ程にならず、もっとボーッとしたものであったでしょう。仮りに、戦争が恐ろしいから、負けたら大変だと色々工夫してやる。そうすると一方の方で、悪人は大いに世界を自由にしようとします。最近で言えば、ヒトラーのように――色々工夫している。それから泥棒があるから、泥棒を掴まえようという訳で、警察と智恵較べをするのです。現に、今の破壊活動防止法案は共産党の方をなんとかしてやっつけよう。武器をどうして作ろうか、手に入れようかとする。この間ピストルを何百か押えられましたが――。それから火炎瓶、竹ヤリ――これは原始的ですが、色々工夫している。そうすると政府の方では、破防法を作ったり色々な巣窟を探ったりしてやっている。これは智恵較べです。結局悪人と善人の智恵較べがあらゆる面に出て来るのです。つまりそれに依って人間は段々智恵が進むのです。それから今読んだ通り、色んな物質文化を発達させるには、神様があるという事を――つまり有神論では、神様がなんとかしてくれるという気になるから、どうも発達しないです。神様は無いから、どうしても人間の力で工夫して行かなければならないという事になるから、必要悪だったのです。ところがここ迄来れば、必要悪でなくて不必要悪で、反って障害物になる。そこで悪を打ち切りにして、これだけ進んだ物質文化を利用して地上天国を造る。その時期が来たのです。時期が来た以上その根本が分かっていなければならない。神様はそれを知らされたのです。そこでこういう文章を書いて世界中の人に知らせる。つまりこれは天国の福音という訳です。キリストが言った様に、「普く天国の福音は伝えられるべし、然る後末期至る」です。これから、先を説いていきますが、悪というものは打ち切りにする。どうして無くする――その打ち切りの順序をこれから書くのです。そうして悪というものは無くなる。無くなるという事は、刑罰で無くなすのでなく、悪はつまらないという事になる。悪なんかやっても仕様がない。善の方が徳だという事になるのです。そういう事になるという事は立派な理由があるのです。それはこれから段々説いていきますから分かる訳です。そういう話はこの位にしておいて――。結局、世界人類にその根本を分らせるという事が、これからの私の仕事です。
それから、これは美術についてですが、いずれ美術館に来た人に絵葉書なんか――今こしらえてますがこれは売りますから、それにつけてやるが、一般の人にやれば解りますから――つまり簡単な美術について、専門的でなく普通人として知っておかなければならないという範囲で書くつもりですが、その最初の所を一寸読ませます。
これは、あんまり宗教と関係ない事ですが、こういう事も少しは良いだろうと思って。
映画の歴史みたいになったが、映画の最初の事も知っておいても無駄ではないと思って――。とにかくその当時と今との進歩の大きい事――しかしその時分も、とにかく無声映画時代の弁士の上手い、下手いが非常に興味があった。今の徳川夢声君は弁士の方はあんまり上手くない――それ程ではない。弁士として一番の親玉はやっぱり染井三郎、生駒雷遊、滝田天嶺――そういう人達で、むしろ夢声さんは弁士を止めて今の様になってから非常に名をあげて、一種の芸風が出来たのです。だから夢声さんにとっては、映画説明が無くなったという事が、かえって出世の動機になったのです。