『自観叢書』第3篇 「霊界叢談」 を掲載しています。 ▶️

個人と先祖など(基本その2)  昭和9年(?)論文

今、現在生きてゐる吾々個人は、突然と涌いた処の、何れにも係りのない存在ではなくて、実は何百人か何千人か判らない、多数祖先の綜合されて一つになった、其尖端に存在呼吸する一個の生物であって、それが、無窮に継承されてゆく中間生命の、時間的個性の存在である。大きく観れば、祖先と子孫とを繋ぐ連鎖の一個であり、小さく言へば、親と子を繋ぐ楔子(クサ ビ)でもある。(中略)

 地獄界に堕ちた精霊は、罪に対する刑罰の苦難によって、僅かながらも一歩一歩向上してゆくのであるが、其際罪穢の浄化による、残渣とも言ふべき霊的汚素が、現世に生を営みつつある其子孫に向って、絶えず流れ来つつあるのである。それは祖先の綜合体である子孫の個人が、罪穢を分担するといふ、一種の因果律的贖罪法である。之は万物構成に於る主神の神律である以上、如何ともし難いものであって、人間は之に服従する以外、何事も出来得ないのである。それは此霊的汚素が、人間の脳脊髄へ向って絶えず流動し来り、其汚素が人間の精霊に入るや、忽ち物質化するのであって、その物質化が膿汁である。之が凡ゆる病原となるのである。
                   病気の原因と罪穢 (医書 昭和十一年四月十三日)

「すべて人間は、親の膝下を離れて一本立になれば兎も角、親によって養われている間は親の罪穢も分担する事になっているのである。恰度樹木に例えてみれば能く判る。親は幹であって子は枝であり、其又枝が孫である。幹である処の親の曇りは枝に影響しない訳にはゆかないのと同じ理である。
                   (『病気の原因と罪穢』  昭和十一年)

今、現在生きてゐる吾々個人は、突然と涌いた処の、何れにも係りのない存在ではなくて、実は何百人か何千人か判らない、多数祖先の綜合されて一つになった、其尖端に存在呼吸する一個の生物であって、それが、無窮に継承されてゆく中間生命の、時間的個性の存在である。大きく観れば、祖先と子孫とを繋ぐ連鎖の一個であり、小さく言へば、親と子を繋ぐ楔子(クサ ビ)でもある。(中略)

 地獄界に堕ちた精霊は、罪に対する刑罰の苦難によって、僅かながらも一歩一歩向上してゆくのであるが、其際罪穢の浄化による、残渣とも言ふべき霊的汚素が、現世に生を営みつつある其子孫に向って、絶えず流れ来つつあるのである。それは祖先の綜合体である子孫の個人が、罪穢を分担するといふ、一種の因果律的贖罪法である。之は万物構成に於る主神の神律である以上、如何ともし難いものであって、人間は之に服従する以外、何事も出来得ないのである。それは此霊的汚素が、人間の脳脊髄へ向って絶えず流動し来り、其汚素が人間の精霊に入るや、忽ち物質化するのであって、その物質化が膿汁である。之が凡ゆる病原となるのである。  
                   病気の原因と罪穢 (医書 昭和十一年四月十三日)

本来血液は、霊の物質化であるといふ事は既に述べてある通りで、此人体生命のヱネルギーである血液を、不断に活動させつつ、なお浄化の工作をなす其力こそ火素である。そうして心臓は絶えず此火素、一名霊素を吸収しつつあるが、空気にも清濁ある如く、此霊界にも大いにそれがあるのである。故に、此霊界に於ての清浄といふ所は、霊素が充ちてゐるのであり、それは、光と熱との量積が、多分に在るといふ事である。然るに此霊素が稀薄である所は、反対に汚素が多分に在るのである。汚素とは一種の霊的曇である。別言すれば、霊界に於て、霊素の濃度なる所は、晴天の如き明るさを感じ、霊素の稀薄なる所は、曇り日の如き陰欝を感ずるものである。然らば、霊素、汚素の多少は如何なる原因かといふと、霊素の多い条件としては、正しき神霊を奉斎する事であり、又善に属する行為と言葉に由るのであって、汚素の原因としては、右と反対にや狐狸の霊を奉斎し、又は、悪に属する行為と言葉を発するが故である。故に、此理に由って心臓の活動を旺盛にし、其結果たる血液を浄化せんと欲せば、前者の方法を実行すれば良いのであって、そうすればする程、健康を増し、不幸は解決するのである。

  (中略)

 愈々大いなる光と熱の、無限の供給者たる光明如来、即ち観世音菩薩が救世之光となって出現されたのであるから、此御神体を奉斎する時、無量に其火素、即ち、光と熱を放射され給ふので、其家の霊界は、漸次曇が消滅して明るくなるのである。其結果、其所に住する人間の心臓は、火素の潤沢に由て活動力が旺盛になるから、愛が湧起するのである。其結果は争が無くなり、血液も浄化するから、健康となるのである。右の如く、愛と健康を以て、業務に従事する以上、繁盛と栄達は当然の帰結であって貧は無くなる。病貧争絶無の根原は、之に依ても瞭らかであらふ。
             内臓の三位一体と心臓の重要性 (医書 昭和十一年四月十三日)

此根本原理は、病気の根元である人間霊体の曇其ものを、霊光の放射に依って、消失浄化せしむるのである。霊体の曇が払拭さるれば、其部の血液は浄化せられ、其部の血液が浄化さるれば、其部の膿汁は解溶され、膿汁が解溶さるれば、病気は全治するのである。故に此療法は、霊から治癒するのであるから、根本的治療法である。(中略)

 観音力療法に於る根本医力である霊光とは如何なるものであるか。之は試験管的には、未だ説明出来ないものである。何となれば、未だ科学の方が其所まで進歩してゐないからである。世の科学者又は、医学研究家諸賢は一日も速く、此霊光の本体を科学的に分析研究されん事を熱望して、熄(ヤ) まないものである。

 而して、此偉大なる霊光は、人類史上未だ顕現された事のない、一種の神秘的光波である。強ひて説明をすれば、彼のラヂュウムの幾十倍、幾百倍の治病力ある光線である、といふより外は無い事である。然らば此神秘光線は、何処に存在するやと言えば、それは太陽の光波と月の光波とが、或X体に向って不断に流射されつつ、或X体内に於て密合し、一種のヱーテルが構成され、其ヱーテルが又不断に、仁斎の体内に向かって流射してゐるのである。故に、仁斎の四肢五体からは、其光波が常に放射しつつあるのである。此神秘極まる一切の工作者こそ、観世音菩薩の御本体である。故に解り易く言へば、観世音菩薩は、治病力たるヱーテル光波を、無限に製出供給し給ひつつ、仁斎の肉体を通じて、治病救済を行ひ給ふのである。
                岡田式指圧療法の原理 (医書 昭和十一年四月十三日)

 消化器能の本質的活動は、物質を変化さして了ふ其変化力なのである。人間が言ふ所の営養食でも、非営養食でも、体内の化学者は、自由自在に生命を構成する原素にまで、そして必要な丈の量にまで変化さして了ふのであって、洵に素晴しい不可思議力である。
               消化機能は一大化学者なり (医書 昭和十一年四月十三日)

元来科学の役目は人間生存上人間の意欲を満たすべく、より便利に、より美しく智能を豊富にし、幸福を増進する為の学問であって、その分野は自ら定められてゐる。それは形而下的学問であるに対し、人間の生命は形而上的の存在であって、科学の分野には属してゐないのである。即ち科学は唯物的分野であり、人間生命は唯心的分野であるのが真理である。然るに近代に至って科学の驚くべき発達によって、人間はそれに幻惑され、科学を以てすれば如何なるものでも解決出来るとする科学過信に陥って了ったのである。それが為己れの分野を逸脱し、唯心分野の領域に侵入したので、その結果人間生命をも自由にして了った。此下剋上的考え方が医学を生んだのであるから、根本的に誤ってゐるのは今更言う迄もないのである。

 以上の如く人間生命は、唯心分野にあり、唯心分野を握ってゐるのが神であるから、私が行う治病の素晴しい力も神から発現する以上、如何なる病気も治るのは当然であって、敢て不思議はないのである。     
                        現代文化とは (医革 昭和二十八年)

 人間の生命は造物主が造られた万有中、最も神秘極まるものであって、他の物質とは根本的に違ってゐる事を知らねばならない。之は説明の要はない程高級な存在である。言うまでもなく智性、思想、感情等の思想的面は他の動物には全然ない。此意味に於て人間以外の一切は、科学によって解決出来ると共に、益々進歩発達させねばならないのは勿論であるというのは一切の物質は人間よりレベルが低く、従属されているものである。

 従って人間が同一レベルである人間を、自由にする事は真理に外れてゐるから、どうしても人間以上であるXの力でなければならない。だとすれば人間が作った科学を以て、人間の病気を治そうとするのは、如何に見当違ひであるかが分るであらう。
                     科学で病気は治らない (医革 昭和二十八年)

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