今日、日本に於ける文化が進歩しつつあるに拘(かか)わらず、或面には種々の行詰りが生じ、予期の如くにゆかないのは何故であろうか。私の見る処によれば、その根本に一大誤謬のある事で、世間はあまりそれに気がつかないようである。
例えば政治の面であるが、どうも今迄政府が立案し、議会が協賛したものであってもイザ実行となると、その政策の十中八九は失敗に帰する事で常に新聞紙を賑わしている。だから新聞の政治欄は、殆んど政策失敗の記録といっても過言ではなかろう。しからば斯様に絶えざる失敗は何が故であろうか? 私の観る処では一言にして言えば自然無視の結果である。之は政治のみには限らないが、現代人は凡ゆる方面に於て何でも人為的にする方が可(よ)いとしている事で、それが文化的進歩的と固く信じているのであるから困ったものである。其為政治面に於ても、必要のない否反って弊害さえ生ずるような政策を立案実行する。その表われとして何でも彼(か)んでも規則を作る、規則ずくめにする、今日誰もが自由主義を云々するが、吾人(ごじん)の経験によれば明治、大正時代の方が国民はどれ程自由であったかしれなかった。それに引換え、今日は実に窮屈である。それは前述の如く規則ずくめであるからで、規則の繩に縛られて人民は身動きも出来ない。処が面白い事にはひとり人民ばかりではない。官吏そのものが規則の繩に縛られて困っている事がある。何よりの証拠は何かの問題にぶつかるや、常識や人情からいえば別に咎(とが)むる程ではないが、規則だからそういう訳にはゆかない。僕等と雖(いえど)も規則には困るのだ、という歎声を役人が漏す事は屡々(しばしば)聞く処である。恐らく法規の多い事は、日本は世界一であると誰かが言った事があるが、全くそうである。「法益々滋(しげ)くして罪弥(いよい)よ多し」という言葉があるが、それは今の日本に当嵌(あてはま)るような気がする。
しからば何故斯様になったかという事を検討してみると、種々の原因もあろうが、其中の有力なるものとしては彼(か)の大戦である。当時人民を機械化する事に骨折った、機械は一定の場所に置き、一定の運転をさせればいい。機械に自由などはない、時々油をさし歯車を廻せば足りる。恰度(ちょうど)人間がこの機械のように扱われた。言いたい事は何も言えない、行動の自由もない食いたい物も食えない、――という人間機械が出来上った。人間を機械化する為には鋳型が必要である。それが所謂(いわゆる)規則である。未だ残っている統制経済もその鋳型の一つである。
そうして人民を機械化するには多くの役人が要る。戦時中何々庁、何々院の役所が次々出来、官吏の数も平常の何倍に激増したのも其為であった。その増加した官吏が今日迄引続いて残っている。何しろ官吏の給料だけで一カ年三百億というのだから驚くべきである。処がそれだけなら、未だいいが、其他に一寸気のつかない大問題がある。それは官吏の多い結果として人間が余る。人間が余る結果、サボる訳にもゆかないから、何か仕事を見付けなければならない。其場合役人の眼をつける処は、規則の改正である。之が甚(はなは)だ困りものなのだ。何故かというと、一旦法規が新しく施行せられると、今まで身に着いて来た仕事は零になる。新法規に対応すべき方法や、手段が生れ、漸く熟練し、凡てがスムーズにゆくようになると、一週間かかる仕事が三日で済むようになるから官吏が閑になる。それが規則改正の考えを起すという訳である。故にこの点に覚醒を促し、官吏を減らさなくてはならない。それには一大英断を以て、行政整理を実行する外はないであろう。
以上述べた様な事は、直接間接に国家に与える損失は蓋(けだ)し甚大なるものがあろう。よく聞く話だが、英米に於ては同一職業を数十年も続けているものが多数あるそうであるが日本には余りきかない、というのは日本位凡ゆるものが目まぐるしく変る国は世界にあるまい。私はこの根本理念を一言にしていえば、今日の日本人は余りに自然を無視する結果である。何でも彼でも人為的にする事が文化の進歩と思っている。
以上は主に政治の面であるが、其他の面にも言いたい事が沢山ある。例えば私が提唱し好成績を挙げている農作物の無肥料栽培である。之は本紙創刊号に続いて毎号実際効果のある報告を掲げているが、土の成分と堆肥だけで驚くべき好成績を挙げている。この根本理論は自然順応にあるので、それに気付かない農業者は永い間、人為的肥料を可として、多額の肥料代と多くの労力を費し、土を殺し害虫を発生させ、それ等の労苦に憂身(うきみ)をやつし、成績不良という結果に悩んでいるのであるから、其愚及ぶべからずである。全く自然無視の結果であって、我等の農耕法が堆肥を重視するのは、落葉や枯草は自然であるからである。今一つ自然無視の害として医療について述べてみるが、人間に病気発生するのは、種々の原因によって滞溜せる毒素の浄化作用であるから、病気とは自然の生理作用で、甚だ必要事である。其際の発熱、咳嗽(せき)、喀痰、鼻汁、盗汗(ねあせ)等の排泄物はそれによって身体が清浄化し、健康を増すのであるから、病気とは健康増進の摂理であって、実に神の大なる恩恵である。に拘わらずそれを反対に解釈した今日の医療は、毒素排泄作用を、停止するのを可としているのであるから、その誤りの如何に甚だしいかである。そうして毒素排泄作用の最も簡単なるものが、感冒である。感冒に罹る事によって肺炎も肺結核も免れ得るのであるから、感冒を奨励するとしたら、結核や肺炎は何分の一に減ずるかは火を見るよりも瞭(あきら)かである。しかるに之に気のつかない医学は逆理によって、感冒の場合毒素排泄の停止手段を行う結果、結核や肺炎は更に減少する処か、反って増加の傾向さえ見られるのは何よりの証拠である。之等も自然無視の為であることは言うまでもない。