御教え*序文/美術館の居心地/精神を転換させると頭が良くなる(御教え集11号 昭和27年6月5日①)

昭和二十七年六月

御教え集11号  「序文」   (昭和二十七年七月十五日発行)

 本冊子は、御参拝日に於ける明主様の御教えを記録にとり、茲に「御教え集」として集録せるものであります。

 明主様の神言の数々により病苦はもとより、人類の三大苦から救われ、歓喜の生活に入り得る事はいと易き事であり、かつ既成の文化の如何なるものを以てしても、到底達し得られないところの真理の大道を御示し下さる御言葉の数々、真善美全き御代への指針とならざるものはなしと信ずるものであります。以上の意味により信者各位の必読の書たらん事を期するものであります。(本序文は本号より第十七号まで同文で一部漢字を平仮名に改めただけゆえ次号以下第十七号まで略)

御教え六月五日

美術館の尾心地

【御 教 え】美術館も見らるる通り足場が取れまして――まだ外の方は色んなかまえや、自動車の通る様な橋を作りますが、建物だけは外観が大体出来た訳です。誰でもそう思うんですが非常に早いんです。スピードですね。恐らくこんなに早いのはないだろうと思うんです。これは、商売人でここで仕事をしている人は殆ど全部信者になっている。それからまた奉仕隊が一生懸命にやるという様な訳で、要するに普通の建物とちがって、つまり信者さんが本当の誠と熱でやるんですから、早いのが当り前なんです。そうして、早ければ出来がぞんざいかというと、これは又あべこべで実に良く出来ている。丁寧に出来ている。見れば分りますがね。内部でも、世間にある美術館とは余程異う訳ですね。どことなく品が入ってますからね。つまり味わいがあるんですね。建築なんていうのは――良いとか悪いとかいうのは、丁寧にやって気を入れたものは味があるんです。つまり見ていて飽きないんですね。これでみると一番よく分かるんですね。理屈でなく感じですね。ですから私は美術館の中をみると、味があるんです。何も飾らない内から、あそこに居ると、いつ迄も居たい気がする。それでつい時間がかかる。そういう点なんか実に面白い。

 十日あたり前から品物を飾る予定ですがね。これは、飾り方も、ただ雑然と決りきった事でなく、中の品物から並べ方から余程意味があるんです。掛物にしろ――この掛物、この絵の隣はこの絵と、調和がなくてはならない。だから並べ方も出鱈目でたらめでは、やはり面白くない。それに絵なんていうのは非常に粗い細かい、色がいろいろありますからね。それから墨絵――そういう点なんかが一つの芸術なんですよ。ところが世間のは、そんな事は全然無関心――でもないでしょうが、傭われた人がお役でやる様な訳ですから、陳列の仕方なんかも随分変なのが沢山あるんです。それについて私のやり方ですね。早く出来るという事をちょっと書いてみたんですが、これは大いに参考になると思いますから今読ませます。

(御論文「私の考え方」)

精神を転換させると頭は非常に良くなる

 これは何事でもそうですが、浄霊なんかの場合も、つまり三十分なら三十分、一時間なら一時間やる場合にも、続けてやらないで一旦気を入れて、そうしてやると効果があるんです。それで急所を見つけようと思って、一生懸命やるが急所が見つからない。それで一旦気を抜くと、ぐ見つかる場合がある。それも、そういった転換の為ですから、転換するという事が非常に良いんです。で、やってみてスラスラと行く事は良いんですが、ちょっと行き詰ったり、ちょっと考えに余ったり、解らなくなった時は、全然それから離れて他の事をやる。そうすると先の事がかえって解るものです。ですから私は一つ事を長くやらない様にする。大抵な事は最近一時間以上やる事は滅多にない。御守とか書をかく場合、大抵一時間ですね。それから先はやっぱり能率が上らなくて、上手いものが出来ない。それから色んな指図ですね。大抵一時間から三十分です。それでどんどん変えていくんです。そうするとその一つ一つが割合うまく出来るんです。こういう事はつまらない事の様で、非常に仕事の上に影響があるんですね。それから何か考える場合に、一つ事を考えていると結局解らなくなっちゃう。だからあんまり考える事はいけないですね。何でも、少し考えてみて、こうと思う考えがわかなければしちゃって、他のことを考えて他の事をするんです。そうして良い考えは刹那にフッと浮かぶものです。考え抜いて浮かぶものじゃないんですよ。ですから、よく相談なんかそうですよ。何時間会議をしたとか――よく聞きますが、そんな事で決して良い案は出るものじゃないんです。ですからいつか私は、信者の幹部の人で会議をするのに三時間とか四時間したというから、駄目だ。精々三十分か一時間で、それで案が出なければ止したらいいと言ったんです。良い案というのは一つしかないんです。三つも四つもないんです。一つしかないんです。ゴタゴタやっているのはその一つが見つからないからやっているんです。よく議会とか代議士会とか、一つ事をゴタゴタやってますが、その一つの良い事が発見出来ないからやっているんですが、発見出来ないという事は、頭が悪いからですね。頭が悪いという事は、頭が曇っている。曇っているという事は、今の人は薬をんでいますから、そこで良い考えが出ないんです。よく色んな議論をしているのがありますが、一番面白いのはラジオの政界座談会がありますが――政界の色んな偉い人が集まってやりますが、一つ事を色々議論してますが、どっちも理屈があるんですが、自分の理屈が良いと思って言っているんです。その理屈を較べてみるんです。最後において較べてみると、どっちかが良いんです。それで分ります。みんな色々言いますよ。それで較べてどっちが良いかという事が分らないんです。で、自分はこれが良いと思って、口角泡こうかくあわを飛ばして――今に喧嘩が起るか、という様な事がありますね。ラジオでは見られないが、テレビジョンになったらよく分りますがね。今はラジオだけだからなんだが、まるで口論ですね。議論でなくて口論ですね。ああいうところを見ても、今のああいう人達の頭脳というものは、はなはだどうも褒められないですね。そんな様な訳だから、無駄な時間と無駄な労力を費して――大体議会でも年中延期々々ですが、延期等――つまらない、くだらないものをして延期をしてますがね。よくそんな暇が――代議士なんていうのは、暇人の相当な方ですね。だからああいう人達がゴタゴタしているのは――一種の、悪く言えばお道楽でしょうね。一つの――議論をして、理屈を言っている。あれが面白いんでしょうね。国民はいいつらの皮だ。そんな様な具合ですからね。今の人に一番の肝腎なのは、頭をもう少し良くしたいですね。そういう点からいうと、明治初年の政治家の方が、頭が良かったかも知れないですね。頭が良かったという事は、あの時代の人の方が誠が多かったですね。やっぱり誠から出る論は良いですよ。不純な論だから変なんですね。一番面白いのは、共産党の方から出る意見ですね。そういう事はどうも変なんですよ。大変理屈に合いそうでいて合っていないですね。だからラジオの時局座談会とか討論会ですね。あれをみても、共産党系の人は辻褄が合わないんです。で、自分はやっぱり良いと思うんでしょうが――一生懸命にやってますが、どうも聞いていても馬鹿々々しいですね。やっぱりそれは誠から出ていないせいでしょうね。本当に国を想い、社会を想い、人民の幸福を想って言う言葉は、必ず人を動かす良いものがほとばしるですね。話は横道にいきましたが、結局人間は頭の働きですね。よく智慧と言いますが、智慧というのはそれから出るんですからね。だから宗教においても、智慧という事に非常に重きを置かなければならないんですが、その点において仏教でお釈迦さんが説いたのは、智慧という事に非常に重きを置いてますが、これは非常に良いですね。智慧正覚というと――お釈迦さんは覚者と言いますがね。覚りを得た人を覚者と言いますが、これはやはり覚者になると良い智慧が出るんですね。それから偉い坊さんなんかは大智と言いますが、大きな智慧ですね。そういう様な智慧という事は、頭が良くなければならない。頭を良くするには、今言う精神を転換させるんですね。そうすると頭は非常に良くなる。それを今言った訳です。

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