幽霊はあるか (天国の福音 昭和二十二年二月五日)

昔から幽霊の有るなしについては、諸説紛々として今もって決定しないが、私は有りと断定する。何となれば実際あるからである。有るものをないとは何人といえども言えないであろう。彼の釈尊の説いた地獄、極楽説もダンテの『神曲』における天国地獄練獄も、決して荒唐無稽な仮説ではない事を私は信ずるのである。そうして霊界とはいかなる処であるか、これを一言にしていえば意志想念の世界である。それは肉体なる物的障碍がないから素晴しい自由がある。霊の意志によっていかなる所へでも飛行機よりも早く行ける。彼の神道において、招霊の際「天翔(あまかけ)り国馳けりましまして、これの宮居に鎮りましませ」という言葉があるが、千里といえども数分否数秒間にして到達するのである。但し霊の行動の遅速は、その階級によるのである。高級霊即ち神格を得た霊程速かで最高級の神霊に到っては、一秒の何万分の一よりも早く一瞬にしていかなる遠距離へも達するが、最低級の霊は千里を走るに数十分を要するのである。それは低級霊程汚濁が多いから重い為である。

また霊は霊自体の想念によって伸縮自在である。一尺巾位の仏壇の中にも数百人の祖霊が居竝(なら)ぶ事ができる。そういう場合、順序、段階、服装等はすこぶる厳格で、何れも相応の秩序が保たれている。もちろん人間が心からの祭典は霊は非常に喜ばれるが、形式だけのものは余り喜ばれない。その場合仏教では戒名、神道においては、御鏡、石、文字、神籬(ひもろぎ)等に憑依する。故に祭典の場合は身分に応じ、できるだけ誠を罩(こ)め、立派に執行すべきである。

昔からたまたま幽霊を見る人があるが、これら多くは死後短時日を経た霊である。新しい死霊は霊細胞が濃度であるから人の眼に映ずるのである。彼のキリストが復活昇天した姿を拝したものは相当あったという事は不思議ではなく、有り得べきはずである。ただだキリストは天に向って上昇したという事は高級霊であるからである。そうして死霊は年月を経るに従い浄化され希薄になるので、眼に映じ難くなる。また幽霊は、針のような穴からでも出入自在である。それは肉体なる邪魔物がないからで、この様な点だけでみる時、自由主義者の理想境のように想われるがそうはゆかない。というのは霊界は厳然たる法則があって、自由が制限されるからである。また霊の面貌について一言述べるが、幽霊は絵にあるごとく死の刹那の形相であるが、これは時日を経ないからで、時日を経るに従って緩(おもむ)ろに変化するのである。それは想念の通りになる。譬(たと)え場えば消極的、悲観的、孤独的の人は淋しく痩せ衰え、孤影悄然(こえいしょうぜん)たる姿であり、鬼畜のごとき想念の持主は、鬼のごとく、悪魔的の人は悪魔の形相となり、醜悪なる想念は醜悪なる面貌となり、善美なる心の持主はその通りの容貌となるのである。現世においては肉体という外殻によって偽装ができるが、霊界は総てが赤裸々に表われるのである。そうして表われるまでには大体一ヶ年以内とされている。ある有名な宗教家の著書にこういう事が書いてあった。それは「人間は死後霊が滅消してしまい、霊の存続や霊界などあるものではない。なぜなれば、もしそうでありとすれば、昔から死んだ人の数は何億に上るか分らないから、霊界は満員になっていなければならない。」と言うのである。

この人などは仏教界の偉人でありながら、霊魂の伸縮自在を知らないのである。

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