霊界の審判 (天国の福音 昭和二十二年二月五日)

抑々(そもそも)人間は、現世において人類社会の為与えられたる天職使命を完全に遂行すべきであるに拘わらず、その殆んどは事物の外殻のみを見、不知不識(しらずしらず)の裡(うち)に悪に属する行為を重ねる為、それが罪穢となって霊体に曇が堆積する。したがって死後霊界人となるや、その罪穢の払拭が厳密に行われるのである。私は幾多の死霊から霊媒を通じてできるだけ詳細なる調査研究を行った。死霊の言説についても誤謬や虚偽と思う点を避け、幾人もの死霊の一致した点を総合して書くのであるから、大体において誤りはないと信ずるのである。

人間一度霊界に入るや、大多数は神道で唱うる中有界(ちゅううかい)一名八衢(やちまた)、仏教でいう六道の辻、基督(キリスト)教でいう精霊界に往くのである。しかし、ここに注意すべきは、東洋の霊界は大体立体的で、特に日本の霊界は最も立体的であり、西洋の霊界は大体平面的である。日本の社会が特に階級的段階の多い事もそれが為であり、西洋が非階級的で平等なのもそれが為である。そうして私が研究したのは日本の霊界であるから、そのつもりで読まれたいのである。

右の八衢とは霊界における中間帯である。それは本来霊界の構成は大体九段階になっており、天国は三段階、八衢が三段階、地獄が三段階である。死後普通人は八衢人となるが、極善のものは直ちに天国に昇り、極悪のものは直ち地獄に墜つるのである。それは死の状態によって大体の見当がつく、即ち天国や極楽へ往く霊は凡(およ)そその死期を知り、死に際会していささかの苦痛もなく、近親者を招き一人一人遺言を為し平静常のごとき状態で大往生を遂げるのである。それに引換え地獄行の霊は死に直面するや、非常な苦悩に喘(あえ)ぐ、いわゆる断末魔の苦しみである。また八衢行の霊は普通の死の苦しみ程度である。したがって大部分は八衢行で、死体の面貌を見ても大体判るのである。即ち天国行の霊はいささかも苦痛の色なく鮮花色を呈し、生けるがごとくである。地獄行の霊は、顔面暗黒色または暗青色を呈し、苦悶の形相を表わしている。八衢行の霊は一般死人の面貌で大体黄色である。

まず八衢行の霊から説明するが、死後八衢へ行くや三途の川を渡るのである。その際脱衣婆なる役人が着衣を調べる。白装束ならよいが普通の着衣は白衣と替えさせる。その際橋を渡るという説と、橋がなく水面を渡るという説がある。但し後者は川に水がなく竜体が無数に川中に紆(うね)っていて、それが水のごとく見えるというのである。そうして橋を渡り終るや白衣は種々の色に染まる。即ち罪穢の最も多いものは黒色で、次が青色、紅色、黄色という順序で、罪穢の最も少いものは白色という事になっている。これらの色によって、罪穢の多少が表示さるる訳である。それから仏説にある閻魔(えんま)の庁(ちょう)即ち審判廷に行きそこで審判を受けるが、そこは娑婆と異り厳正公平でいささかの依怙(えこ)もなく誤審もない。その際閻魔大王の御顔は見る人によって異るそうで、悪人が見ると御眼は爛々(らんらん)として口は耳元まで裂け、舌端火を吐き、一見慄然とするそうである。しかるに善人が拝する時、御顔は優しく柔和にして威厳備わり、親しみと尊敬の念が自ら湧くという事である。もちろん一人一人浄玻璃の鏡に照し、その罪を判定する。また閻魔の帳面の記録によって大体の下調べを行うのである。現世における裁判官は霊界では冥官(みょうかん)であり、その監督は神道における祓戸(はらいど)の神が行うといわれている。閻魔大王は神道における国常立尊という神様という事になっている。審判によって判決を与えられ、それぞれの天国または地獄へ行くのである。故に六道の辻とは、その名の如く、極楽行も地獄行も上中下の三段二道で、その辻になっているからである。そうして地獄行と決った霊は一時八衢において修行をさせ、霊の向上を計るが、それによって改過遷善(かいかせんぜん)の物は地獄行とならず極楽行にふりかえられるのである。その際の教導者は、現界におけると同様、各宗教の教誨師が死後そういう役を命ぜられるのである。八衢においての修行年限は大体三十年となっており、それまでに改心できないものは全くの地獄へ墜つるのである。また霊体の罪穢に対し、その遺族が誠心誠意懇(ねんご)ろなる法要を営むとか人を助け慈悲を施し善徳を積む事によって、それだけ霊の浄化は促進さるるのである。この理によって親に孝を竭(つく)し、夫に貞節を捧げる等は、現世よりもむしろ死後における方がより大きな意味となるので、慰霊祭などは霊は非常に喜ぶのである。

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