観音力・観音行・観音心 、善人悪人の別 『教えの光』(4、浄霊および信仰上の問題)昭和二十六年五月二十日

  観音力、観音行、観音心  

      【お伺】観音力、観音行、観音心について。

    【御垂示】観音力とは観音の発揮する力であって、この観音力をいただけば人間がこれを発揮することができるのは、諸君が無数の奇蹟を行なっている事実によっても明らかである。ただその際人により発揮する力の強弱の差別はある。

      観音心とは観音の大慈大悲の御心であり、その御心を心として体現することが観音行である。特に観音心行(神業)においては絶対に人を咎めてはならぬ。この人を尤めるのが一番いけないのである。
     
  御讃歌に菩薩行ということがあるが、菩薩とは仏教では覚者を指すのである。この菩薩まではだれでもなれるのであるが、如来には容易になれない。如来も無論インドの位で、尊者、菩薩、何々天、如来・明王という位がある。菩薩行とはその菩薩になるまでの行をいうのである。
   
観音様のことを無礙光如来(むげこうにょらい)とも応身彌勒ともいうのであるが、これは自由無碍、円転滑脱、行き詰まることのないお働きをいう。また応身とは、相手に応ずることで、時により、所により、人によりあらゆるものに応じ千変万化の行をするので、三十三相に化現されるというのも、応身のお働きを示したものである。であるから観音行においては、まずは応身することができなくてはいけない。そして本当に観音行が肚へ入ればどんなことでもうまく行くのである。

   観音様は一面非常に勇猛な点もあるので、最勝妙如来(さいしょうみょうにょらい)という御名もあり、又馬頭観音のお働きもあるが、この場合は獣になられて悪鬼羅刹(あっきらせつ)を克服されるのである。

  神様の事はことごとく極めて合理的であって、神様のなさることやお許しのあることは、必ず肯(うなず)けるべき理窟がある。従って人間の行動も無理がないとともにに理窟が立たなくてはいけない。しかしそれは決して窮窟に難しく考えるのも感心できない。要するに信仰は当然のことを行なえば良いのである。よく「果報は寝て待て」と言うが、あらゆることは決して焦ってはいけない。寝て待つくらいな常にゆったりした気持ちでなくてはならぬので、そうすれば物事がうまくゆくということで、これも観音行の一面である。

 善人悪人の別  

      【お伺】浄霊によって善人と思われる人が助からぬ場合があるのに、まったく悪人としか思えない人で助かる場合がありますのはいかなる理由でしょうか。

    【御垂示】一般に人間の眼からみて善人悪人を決めるが大いなる間違いである。これは神様からみると往々異(ちが)う場合がある。

 『信仰雑話』にあるごとく、すべて小乗と大乗とあって、これによって見方が違う。人を観る場合大乗的にみなくてはいけない。善人といっても本当の善人は極めて少ないので、ふつう善人というのは、たいてい意気地なしで、概して働きのある人は多く悪人に見えるものである。神様の御眼からみれば善人といっても役に立たぬ人間は、この世の穀(ごく)つぶしで一種の悪人である。大善をする場合は必ず小悪を伴うもので、これはしかたがないのである。その際小悪のみをみると悪人としか見えない。また悪人からみれば善人は悪人である。

      要するに簡単に善悪を決めることはできない。善悪はまた時代によっても違う。忠君愛国思想も民主々義の現在では悪になる。要するに全人類平等に幸福にすることでなくては本当の善ではない。

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