法身、報身、応身に就て『教えの光』(1.宗教、科学、哲学、芸術の問題 ) 昭和二十六年五月二十日

       【お伺】法身(ほっしん)、報身(ほうしん)、応身(おうしん)について。

    【御垂示】報身—地—釈迦、法身—月—阿弥陀、応身—日—観音となり、観音が一番上である。

      法身は水の働きのみで彼世(あのよ)の事が主である。この世の救いよりは霊界すなわち浄土へ救うのが眼目である。阿弥陀は西方へ浄土を作って、仏すなわち覚者となったものを我方へ来るようにと釈迦に誓った。よく寂光の浄土というが、寂光とは寂しい光、すなわち月の光で月の霊界である。

      報身は地になるから下であるが、ある場合上になる事もある。それは観音や阿弥陀を生んだから、その母ということにもなる。親が子を生むというが、子が親を生むともいえる。つまり、子ができて初めて親という名が生まれる。

      応身は一番働きが大きいんで、三位の働きを一身でなされるのである。応身とは種々の面に応ずることで一つものに囚われない。それで六観音三十三相に化身(けしん)されるのである。[何事も、]融通がきかなくてはいけない。相手が固苦しければことらも固く、さばけておればこっちもさばける。相手により自由に応身する。ちょうど玉が転がるように、いささかも角があってはいけない。いわゆる円転滑脱である。女には女に向くよう、男なら男に合うよう、その相手の好むようなようなことを話してやる。ところが世の中には自分の好きなことを相手に押しつけ従わせようとする。これは応身ではないから嫌われる。またこちらから話すより相手の話を聞く方がよい。すなわち話上手より聞き上手になることである。

     

タイトルとURLをコピーしました